新月過ぎて、近地点過ぎて、満月過ぎて、遠地点過ぎた。
最近、「先生、ブログは書かないんですか?」と何人かに言われる。
教室で言われる方は、擬似薪ストーブ上の新たに購入した30×30×50の水槽を見て、私がこれまでと変わり無いことを確認した上で上の言をなしているが、そうでない人は、心配しているか、謎に思っているようなので、以下記述したい。
多忙を極めた一月末、焚き火はおろかどこへも出かけられず、しかも頼みの気分転換習慣市営プール長期休業の中、さらには在庫オレンジ底を尽き、その上目の前の仕事のほかに先々考えておかなければならない仕事のために悶々としたアタマで、その「逃避先」に私が選んだのは文学と哲学だった。
そもそもリベラルアーツの録画収録のために、旧約聖書、福音書、プラトン著作、韓非子、論語と読み返さなければならないものが多い中に、どういうわけかふと柄谷行人のことを思い、本棚から5、6冊抜き出してきてこれを読み始めると、そこに自分の読書能力ではとても消化できなかったことがあることを再確認し、一方で、セルバンテス『模範小説集』を読み直してその作品の重層さにあらためて圧倒され、さらに芥川賞での安西ホセの驚くべき用語使用とかつてない日本語音声のデジタル文体に驚き、気がつくと自分はなんと単に時間を浪費して無駄な回り道をしてきたのだ、今更自嘲さえできないほどの「バカだった」という深い後悔の念に襲われそうになるが、経験的能力によって鬱病には至らない。
自分の既存に記したもののほとんどは、愚かで浮かれた浅いアタマで書かれたものである、と思われる。しかもそのほとんどは当初目的の完全にふざけたアタマで書いたものではないという矛盾を許容する不徹底の文章記述の山であった。
自分が日常してきたことのほとんどは自己を満足させようとするための小さな事柄に過ぎず、自分の本質を磨き上げようとすることと相反している。
自分は、忍耐を通じて修練するということにあまりに欠け過ぎる。
オモロイかオモロくないかという二者択一的選択肢を前提にし過ぎる。
これでは「次元」が低過ぎる。
何もできない。できるのはまるで子供のように好奇心的直感によって動くことのみ。
しかし、その好奇心も直感も齢重ねて朽ち果てようとしている。
このままではオモロうない。ゆえに、
もっと何か面白いことを思いつきたい。考えたい。
何か一つのことに集中したい。
それは何か?
そのために自分の最も日常的なことを制御したい。
それは他ならぬ書くことである。
以上は、怠惰の言い訳に他ならないが、私はこれまでの自分と異なる自分になることを模索する。
昨日、やや勇気を出して、奥多摩での寒中焚き火に参加したが、子どもたちの声と満天の星にやや元気付けられてこれを書いた。