15日からの海老澤研個展について。 | JOKER.松永暢史のブログ

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現代的な生活の中で、「具象アート」を家に飾るのはしっくりこない。そこには、「綺麗だな」、「よく描けているな」と言う以上の感慨はあまり起こらない。では「ポップアート」はどうか。これはすぐ飽きる。「バカ」が描いているか「バカ」を対象に受けるために描いているのどちらかと思えてしまう。これでは大嫌いなテレビ番組と同列である。
現代的な、と言っても格別に「モダン」ではないが、飾って鑑賞して飽きないのは「抽象アート」である。
私は、金も飾るところもないのに、友人の芸術家の「抽象アート」を買い続けてきた。
今にして思うと、それは「結婚」したことと同様、「正しい選択」だったと思わざるを得ない。
御殿山の事務所に飾られる作品群は全て私のコレクションである。
私は「抽象アート」を愛する。
それはそれが単に芸術作品として優れるだけではなく、「オモロイ」からである。飽きさせないからである。
「具象」には感銘を受けるが飽きる。でも「抽象」は飽きづらい。
こうして見渡すと、周囲日本人の画家たちの作品は、皆どこかしら「抽象的」である。
それはそこに、この国なりの絵画芸術の大きな「ムーブメント」があった「証」と言えるかもしれない。
ここから、画家の海老澤研の作品について述べようとするが、このことを記述すると、私のもう一つの知られざる側面の「抽象アート」との関わり合いにつて述べる必要があり、その記述につきあうこのブログ読者はさらに少ないと思われてしまう。
カタカムナ音読法、サイコロ暗算術、月の遠近WAVE研究、焚き火囲炉裏教育、そして抽象構成作文法となれば、もはや私のしていることには統一感が全然ないことになるが、それはとどのつまり好奇心と追体験の連続的活動の結果なので、論理的な説明を抽象化することはできない。
すでに何度も述べたが、人の人生究極飽きないと思われるものは、文学、芸術、哲学、旅、そして面白い人間に出会うことである。
この趣味観点に基づいて言えば、目下のところ、最高に面白いと思われるのが、画家の海老澤研である。
この都立戸山高出身で、自己経験上、限りなく「無意味に近い」慶大文卒の男は、20代で南米に居住し、そこで信じられないような数々の体験をして、多国籍結婚して子どもを作り、その傍ら、詩作、ボサノバ演奏、そして絵画作品制作を連続し、近年帰国した後も、毎日のように連続して作品制作をする、なんと70代の「若者」である。
この画家のくせに超話したがりの海老澤が、1月15日から1週間、表参道青山の5601ギャラリーで『多層式言語』なる個展を行い、その最終日20日18時からのギャラリートークを私に依頼してきた。しかし、私は「コレクター」としても大したことなく、またこの方面のしっかりした「知識・教養」もない。しかし、私なり個人的な抽象アートというものについての思いはある。
そのことについての「前記述」を求める人は、それを表して欲しい。