最近夜眠りにつく前に、金谷治訳注『韓非子―第4冊』(岩波文庫) 、ギルバート・マレー著/藤田健治訳『ギリシア宗教発展の五段階 』(同)、日本聖書協会新共同訳『聖書』などを読んでいる。他に枕上には、セルバンテス、ディケンズ、リルケなどが積んであるが、どうもこのところ文学作品を読み返す気分にならない。
『韓非子』はリベラルアーツ初級の会読で『論語』を読む時、儒教思想の客観化の手助けとして部分部分を読んでいるが、第4冊「難勢 第四十」以降を扱ったことはなかった。しかし、こうして読み返してみると、巻末にこそその見落とせぬ文章が多く見られることがわかる。これを生徒たちと読む時間がなくて勿体無いが、たとえば「心度 第五十四」に以下のような文章が書かれている。
そもそも民の本性は、労働を嫌って安楽を好むものである。しかし、安楽にしていると仕事はだめになり、仕事がだめになると世は治まらず、治まらないと乱れることになる。しかも恩賞や刑罰が天下に実行されないのでは、必ずゆきづまってしまう。そこで大きな功績を上げたいと思っても、全力を傾倒することをしぶっているのでは、とても大きな功績を上げることは期待できないように、国の法を立てたいと思っても、古い法を改めることをしぶっているのでは、とても民の乱れを治めることは期待できない。だから、民を治めるには決まった常法はなく、ただ実際に治まる治め方が法になるのである。法が時代とともに移っていくと世の中はよく治まり、治め方がその時世にふさわしければ功績があがる。だから民が素朴であったときは、同義的な名誉で禁制してそれで治まったが、世間の知恵が進んだ今では、刑罰によって引き止めてこそ服従するのである。時代が移り変わっているのに法が変わらないと国は乱れる。民の知能が複雑になっているのに禁制が変わらないと国の領地は削られる。だから、聖人が民を治める時は、法は時代とともに移り、禁制は民の知能とともに変わるのである。(金谷訳)
これは当今現代社会にも当てはまる考え方である。人間の善性を尊ぶ儒教思想では乱世は収まらない。乱世を収めるには冷徹現実的な法家的思想が必要である。しかし、世の中が治れば、法家思想は社会の中に沈み込んで機能し、そこで変わって人々を安心納得させる儒教思想が表立って優位に立つことになる。そこでは「法の変換」と言うより「思想の変換」が起こる。
ギリシア古典碩学のギルバート・マレー著の『ギリシア宗教発展の五段階』は、神話の成立以前の原始宗教から書き起こし、その後ホメロスなどによるオリュンポス系の神々の隆盛と衰退の歴史を伝え、最後にローマ時代のキリスト教の成立のための土台環境と、初期キリスト教思想の成立と発展について述べている。現在読んでいるのは巻末に「付録」として訳出された紀元後1世紀のサルティウスの『神々と世界について』であるが、その末尾「二十一」には、
徳に従って生きる心霊はその上至福な心霊である。そして非理性的な心霊からはなれ、一切の肉体からきよめられて、神々と合一し、それとともに全世界を秩序づける。しかもこれらのものが一つとして心霊に恵まれないとしても、徳みずからならびに徳から生ずる喜びと栄えと、さらに憂いなく僕(しもべ)たる事もない生とは、徳ある生を生きようとしまた生きおおせた人を幸福とすることであろう。(藤田訳)
とある。そこには、ソクラテス以降の徳についての考察が連綿と引き継ぎ伝え続けられたことが確認される。そしてその背後にあるのは「祈り」であることが暗示されるが、仏教の教えと類似するのが興味深い。
新共同訳の『聖書』は極めてよく考察が重ねられた上で練られた名訳文であるが、ご存知の通りユダヤ教『旧約』の部分が、イエス・キリストについての『新訳』部分の約3倍もあり、ユダヤ教徒ばかりかキリスト教徒も、この大編を読んで部分部分について思索し考察を重ねた歴史があったということは誠に興味深いことである。そこでは「リベラルアーツ」をする時と同様の「効果」が得られていたに違いない。
興味深いところばかりであるが、ちなみにその「箴言」の9<智慧のすすめ(四)>の「格言集」には、
不遜な者を諭しても侮られるだけだ。
神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。
不遜なものを叱るな、彼はあなたを憎むであろう。
知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。
とあるが、『旧約』が現在の形にまとめられたのはローマ時代ではないか。イエスの言葉には『旧約』からの引用が多い。これは彼が『創世記』以下の「モーセ五書」以外の『旧約』の内容を知っていたことを示すのか。それとも『新訳』執筆者たちが、『旧約』」を参考にしたことを示すのか。
来年のリベラルアーツでは、初級は『論語』を読み終わって、『スッタニパータ』、『旧約聖書』、『新約聖書』に進み、上級はマレーをテキストに会読していきたいと思っている。