いのちの祭りー16 | JOKER.松永暢史のブログ

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最近、出かけて帰った勢いで書くことが多くなっている。昨日は香取神社に行ってきた。

秋の大神社の波動のおかげか、少しずつ考えがまとまってきた感触がする。

 

異なったものが共存するのが「コミュニティ」である。

しかし、そこには何か同一の基盤と共通方向性があるはず。

1988年のいのちの祭り、そこにあったものーそれは反原発と、カウンターカルチャーとミュージック、アート・・・。

これらは未来社会への現状脱出と同時に新規創造への動きの一つだった。

だからこそそこに「要素」として「サイケデリック」があったとも言える。

「レゲエ」の音楽に共感した人の多くは、都会的消費生活を捨てて、農村自給的生活に結びつかざるを得ない。

そこでは「フォーク」ともいうべきものが形成熟成されていった。

しかし、時代の流れはそれを「旧い」ものに洗い流そうともしている。

ともあれかつて「レゲエ」は、「共通地盤」だった。

正直に自分たちの気持ちを吐露する、愛さずにはいられない音楽だった。

「いのちの祭り」にこれがあるのはわかる。

そして、そこに「縄文―スピリチュアル」があるのもわかる。

これはより敏感になることによって、ナチュラルなメッセージを受け取ろうとする試み。

すでにカウンターカルチャーを脱して、別次元に移行せんとする活動である。

そこには「神」があるが怒りはない。祭りと祈りがある。

ではレイブraveのEDM(Electronic dance music)はどうか。

シンセサイザーの電子音の連続。

そこには所謂「メロディ」もない。

その圧倒的な振動音は、否応なしに躰を屈服させて、「トランス」へと導く。

随所に現れる効果音はこれまでなかったところにアタマをブッ飛ばす。

何もかも忘れさせる。

「祭り」ではなくて「party」。

レゲエはカウンターカルチャーそのものだった。サヌキ的だった。

レイブには新しい形で「カウンターカルチャー」が残る。これも未来サヌキ的である。

縄文はそれを超える。アワ的、自然受動的である。

より強い刺激を求めること、より敏感な自分を作ろうとすること。

それはより新しいものを「知覚」するため。

これまでにはなかったものを知るため。

「未来」を創り出すため。

そして、新たな「いのち」を生み出すため。