衆院選結果ー教育の問題が無視されることについて | JOKER.松永暢史のブログ

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衆院選が終わり、報道では自民・公明の与党大敗とあるが、自民が第一党であることには変わりがない。

自民と公明の票を合わせると、215議席あまり。無所属で立候補した自民党議員も合流するから、維新か国民民主のどちらが合流すれば過半数を取れることになる。

対する立民は148議席とのことなので、維新と国民が両方とも合流しても過半数には届かない。

ゆえに新政権も、石破さんが首班を務めるかどうかは別として、自民を柱にするものになる可能性が高い。

与野党伯仲により国会運営は困難になるだろうが、重要な法案は通すことができる。

鍵は憲法改正に必要な法案をどうするかだろう。

今回も、末期的な状況にある教育について言及されることがほとんどなかった。教育荒廃の問題と少子化の問題は最早切っても切り離せないものとなっていると思われるが、国民の関心も薄いということなのか不思議としか言いようがない。「裏金」ばかりが強調されて、肝心の政策について、特に外務と財務の政策について、時間がなかったこともあろうが突き詰めた議論になることはなかった。もちろん教育への言及は吹き飛んでしまっていた。

『韓非子』にあるように、「おおよそ政治がうまくいっている時は、下々の者が上の考えていることがわからぬ時である」ということになるが、「下々の者がわからない」とは、下々の者が愚かで無明であることが前提になる。

教育が荒廃して、これに気づいて対処することができない人たちの子どもたちは、「無明」であり、上のやっていることがわからない人たちに成長する。

これを「良し」とすることは、エリート、官僚、メディア、政治家といった人たちにとっては、ある意味で当然のことなのかもしれない。経済同様、政治支配も、無明な者をうまくコントロールすることによって成り立つのは必然のことであろう。そこには、「未来」における「支配」の方向性がすでに決定しているということなのかもしれない。

考えてみれば、「無名」な人たちにとって、いやそうでなくとも国民全体にとって、第二次大戦後の自民党支配は本当にありがたいものであったことは間違いない。

屈辱を飲んで、吉田、岸以下、軍備をアメリカに押し付けて、その間に経済復興、経済成長を成し遂げる。

50年前と比べて日本人の生活は本当に豊かになった。働きさえすれば、飢えて死ぬことはまずなく、医療も生活保護も各種インフラも、諸外国と比べて考えられないような高水準を享受した。農民も各種援助などで保護され生活に苦しむことは無くなった。

世の中にはその恩恵を少しも被らなかった人たちもいるかもしれないが、少なくとも我々は、ガザやウクライナのような戦争を体験することはなかった。つまり「「平和」を与えられた。

命が守られて、選択が自由であれば、あとは各人の努力と工夫次第で生きていくことができる。

だが、そこに必要なのは「知恵」である。

そして、その「知恵」をできるだけ多くの人に機会均等的に提供しようとするのが教育の本来の姿であったはずである。

「無明」な者は、「知恵」を与えられることを必要としない。

本当にそうなのか。

「知恵」を与えることを無視して、あくまで「服従」の習慣化を与えようとすることに、少子化社会の子どもたちが感覚的に反発しているのが教育現場で起こっていることの現実ではないのか。

しかし、「選挙結果」ならびにそれに至る「内容」は、そんなことが全く捨象された世界だった。