リベラルアーツ初級ー「岩波文庫」→「岩波現代文庫」移行について | JOKER.松永暢史のブログ

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リベラルアーツ初級(第1第3土曜会講)は、金谷治訳(岩波文庫)を通読してきたが、次回(11月2日)より、宮崎市定著『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)をテキストとすることにした。

私が使っていたのは、金谷訳1963年刊であるが、生徒たちが持って来るのは、1999年版であり、そこには著しい「修正」の跡が見られる。

会読時に、金谷訳を読むと判然としないことが多いので、宮崎著を参照して了解することがよく起こる。

宮崎師は1995年に、金谷師は2006年に他界されているが、どうも宮崎師のものを読む方が理屈が通りやすいように思われる。

同様のことは、『老子』(岩波文庫/蜂谷邦夫訳)にも見られ、原著に忠実であろうとし過ぎするあまり、「注」でカヴァーしつつも、かえって何を言っているのか論理的に捉えにくくなっている印象を与える。

私の「リベラルアーツ」は、学ぶにおいて、所詮その究極目的は、その教え手が考えていることを知ることであることがその主要部分になることを鑑み、「大人」の思想根拠を、予め旧制高校生的に捉えてしまおうとする試みであったが、これには意外な「効果」があることがわかっている。それは、大学入試国語に圧倒的に強くなることである。

というのは、テキストに用いる岩波文庫は、ほぼ皆東大京大の学者が訳出・解説したものなので、その文章を読むことは帝国大学伝統の文体に慣れ親しむことであり、彼ら帝国大学の学者たちが日本語標準文体を規定しているのであるから、これを読むことは、わが国最高のレトリックを学ぶことにつながるからである。つまり、岩波文庫でリベラルアーツすることほど高度に国語力を伸ばすことはないということになるのである。

では、その岩波文庫で何を読むかと言えば、それはおよそ2000年以上も前に書かれた、その後の多くの人の思想の根底になった文献を並列的に読むことである。

『論語』、『老子』、『韓非子』、『孟子』で東アジアの思想を、『ソクラテス』などのギリシア思想と、『旧約聖書』、『新約聖書』で、西洋・ユダヤ人の思想を、『スッタニパータ』などの初期仏典や『ヴェーダ』や『バガバット・ギーター』などのインド思想を、『クルアーン』による中東イスラム思想を読み知ると、そこにそれらを網羅した「抽象思考」が生まれ出てくる。

この段階で、例えば儒教思想に深く根ざした「老人」の意見をそのまま受けずに、とある思想の一部であると客観化して、対峙・吸収することができる。漢訳仏典による訳のわからぬことを言って説得しようとする坊さんを論破することもできる。おまけにイスラム思想が、根底的に欧米資本主義思想と相反するものであることも知ることもできる。

中高生に、「学」の目的の最終段階の一つを前もって教えることができる。

それは、あえて言えば、主体的判断の「根拠」を与えることである。

言うまでもなく、これは多くの「大人」が身につけることができなかった「教養」であるから、通常「大人」はこれを子どもが知ることを避けたいと思うはずである。

大人より子どもの方が賢くなってしまう。

しかし、「教育」の真の目的は、次世代の若者たちが、今世代より賢くなって、より有意義な未来社会を構築するように仕向けることである。

これには、「右」も「左」も関係ない。

「智慧」を意識する者で「古典」を読むことの尊さを否定できる者はどこにもいない。