「ヒッピームーブメント」、それは学生運動崩壊後に一つの方向性を示した「カルチャー」である。
社会的なしがらみから逃れて、自己のやりたいことをやる。
これはソクラテスの、「みなさん全員にお伝えしたい。おおよそ不必要な財産の収得や意味のない社会的地位の獲得を目指して、その傍で自己の魂の永遠向上性を探究することを忘れることがあってはならない」(松永現代語訳編)という言葉と矛盾しないように思われる。
「奴隷」ではなく、「市民」に向けられたその言葉が意味するところは、「つまらない社会的欲得に捉われず、自己の魂の向上のためにするべきことを優先させよ」ということになる。
しかし、それとは何か?
自己の魂の向上に深く関わるものとは何か?
その一は、「道」(タオ)である。これは先人たちの歩んだ、やや倫理的に確定した生き方の好奇心的探究である。
その二は、「学」である。我々は周囲環境に対する問いかけと、それに基づく追体験を欠かすことはできない。
その三は、「アート」=「芸」である。自己の心情をできるだけ他者共感を呼ぶように表現する。
その四は、「技」=テクニックである。何かに本格的に上達しようとするときそれは人を「止揚」する。
その五は、「術」=精神性の伝達である。ここには以上のすべてのものを含めた前提としての「瞑想」or「祈り」がある。
その六は、「遊行」である。一切が追体験となる本質的な好奇心による旅である。
こうした「境地」に近づくことのいくつかを、現実的に自己生活の中に取り入れるように意識したとき、その障害となることの中心が単に糧を得るための労働時間となることは想像に難くない。
「活動」の継続のために働くのではなく、生活のためだけに自己の時間を「犠牲」にすること。
このことは根底的に資本主義現代社会の自然破壊問題に直結する。
我々は、生存のために余暇時間を電力エネルギー的に蕩尽して生活している。
この一般に受け入れがたい矛盾。
「ヒッピズム」はそのことがわかっていた。直感していた。
そして、その象徴が原発反対であった。