若い時に考えた。
―人の人生究極飽きないものは何か?
その答えは、文学・哲学、芸術、旅、そしてオモロイ人に遭うことだった。
友人の誘いで、8月30日から三日間、鹿島槍スキー場で開催されるいのちの祭りに参加してカタカムナ音読をすることになった。
これは、88年に八ヶ岳で始められたカウンターカルチャー系のイベントで、いったいどこにこのような人たちが生活しているのだろう?と思わせるような人たちがたくさん集まる「場」である。
1960年代以降の学生運動、ベトナム反戦運動などを背景に、既成概念を変換した自然回帰的「ヒッピズム」を発展させて、貧しい中でも好きなことを選んで生活する人たちが増えた。彼らの多くは芸術的な活動をその生活部分に持ち、自然を愛して地方に移住した。
実は自分もそのような生活がしたかった。都市を離れて自然の中で農業的な生活をし、余暇時間を人間交際や創作活動に充てるという宮沢賢治的生活がしたかった。
しかし、大学を卒業する直前、すでに結婚することになっていた女性はこれに猛反対した。
「それなら私はあなたと結婚しません!」
今思い返すと、これはなかなか奥深い言葉だった。
夫婦になった者が求めるのは究極の反対だった。
そしてその結果、個人教授のバイトをして都会にへばりつくことになった。
田舎に住むことは叶わぬ「夢」になってしまった。
代わりに焚き火を趣味にしてお茶を濁したりした。
いのちの祭りには、若い時に自分が選びたかった生活を選択して長い年月を経た人たちが多種多様にたくさん集まっている。槙田但人編集の彼らの写真集を見れば、皆つまらないことに心煩わせることなく、生きていることを心から愉しみ、心が安定して幸せそうに見える。同時にそれに続く世代の活動ぶりも見ることができる。
善いことをして、良い情報を共有して良いコミュニケーションを広げていく。
自分のことだけを考えない。周囲のことをも考える。みんなの「いのち」を考える。「ぜんたい」のことを考える。
その考えのもとに生きる。
「自然」に向かって自分の心を偽らない。
当然そこには素晴らしい人たちがたくさんいるはずだ。
改めて現在の彼らと知り合いたい。
だが私は組織というものに属したことがない物書き的「アウトサイダー」で、どのような集団内に入っても常に必ず「浮く」。初見の人には怪しまれることすら起こる。これは自らの性質上の「宿命」だと思って諦めるが、自分にとって興味が尽きない人たちとの出遭いは胸をワクワクさせてどうしようもない。
いったいそこで何が起こるのか?
「カウンター」を食らいたい自分がいる。
面白い人に面白い話を聞くには、どのような立ち位置が大切なのか、機会は限られるであろうが、せめてにこやかな顔を欠かさないように心がけたい。
All tribes are welcome.
No nukes one love.
Everybody lives one's true life.