午前5時。南天中空に、満月過ぎ近地点月。
生徒たちから学校成績の付け方や三者面談の教師の様子などの報告を受けると、いよいよ教員の質が時代にそぐわない状態であることが浮かび上がる。これは以前から、いやずっと以前から続いてきたことだが、ここ近年ついに「末期的」とも言える状態に近づきつつあると思う。職場環境や採用問題の実態からもそれは明らかなことだと推察されるが、能力が足りないのにそれ以上のことを要求されている教師たちに直面させられているのは子どもたちなのである。
子どもを相手にする「教師」と言う仕事をしていることの意味がわかっている人の多くは、学校教育の場にそれを見出すことができず、自ら辞めるか、精神的な限界に達して病に倒れるかして職場を離れざるを得ない状態に追い込まれる。そして逆に、そこに「残る」人たちは、あるいは生活のために残らざるを得ない人たちには、教師としての仕事の意味がよくわかっていない人たちが多く含まれることになる。
これでは子どもたちはたまらない。「教師」とは思えない人を「先生」と思わなければならないのである。
「教師」としての自覚がない人たち。これは、スケールは違うが、結局「政治家」としての自覚がないと思われる人たちと同様の存在なのか。
全ての教師がそうとは言わないが、能力だけではなく、意識が薄い教師の割合は確実に増えている。
時代は移っている。明らかに大きな変化が現れ始めている。
しかし、「意識」は変わらない。
「平和」、物質的豊かさ、そして充分な「娯楽」。どう考えても「意識」は薄まるか道を逸れる。
本質的なことについての「意識」ではなくなる。
これも「洗脳」か。
それとも、既成の言語使用が「形骸化」してしまっていることへの無自覚か。
ふつう世に使われる「勉強」という言葉は、「宿題」という言葉と同様に嫌なものである。
「勉める強く」、「家でやること」。
どちらにも、自発的に「する」ではなくて、義務的に「させられる」と言うニュアンスがあるのに、「勉強する」、「宿題する」と自発的に用いられる。「学ぶ」「おさらい」で良いではないか。
英語の「study」には、「自分からする」というニュアンスがあると思われるが、「勉強」には「我慢してやる」というニュアンスが抜けきらない。「Let’s study」は言えても、「さあお勉強」とはやや言い難い。
さてでは、「study」でも「勉強」でも、はたまた「学習」でも良いが、それは何のためにやるのか。それとも目的がないものなのか。
この答えを出すことを忘却した時、「教育」は無意味化する。
ここに改めて「洗脳」の深さを感じさせられるが、もうそろそろそれも「限界」だと気づき始めるべきではないのか。
学校教育現状について、子どもたちに申し訳ないと思えない大人たちは「異常」とすら言えると思うが、そんなことは「冗談」でしか言えない。