奥多摩プチ合宿 | JOKER.松永暢史のブログ

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人間は、特に男は、「体験」とそれに基づく決意によって自分を変えることができる。

たとえば、普段から忘れ物をしがちな自分を放置していると、あるとき非常に大切なものを失うか、自分だけではなく他の人にとってもなくなると困るものを喪失する失敗体験がやってくる。この時に「決意」が起こる。「もう金輪際こんなことが起こるのはごめんだ」→「絶対にやめよう」→「それには常日頃から自分の身の回りのものについて注意することが必要だ」→「だから注意を怠らないことを自分で決める」。

火傷などの経験もこうしたことによって起こる。台所の熱い鍋をそうとは知らずに指で触れて火傷する。すると、その同じ経験は二度としたくないから、見かけ上熱くないと思われるものも注意して触れるようになる。でもこれも、「熱い!」と言う失敗経験がないと起こらない。

日常生活のこうしたあらゆる失敗体験と決意の積み重ねが人を造る。また、自分の悪癖を放置する習癖のある人はまともな成長をすることが難しいことにつながる。

「教育」とは「体験」を、体験の場を与えることが本質である。

それには「枠」のない、自由な活動環境を与えることが大切になる。

教えてわかるのと、教えないのに学ぶことは異なる。

だから、それが可能な教育環境設定を行う。

だが、どうもそれだけでは足りない。

そこで起こったこと、体験したことがどう言うことであるのかを認識させる人の手助けが必要になる。

子どもたちにとって、奥多摩古民家での合宿は、失敗も含めた「体験」の宝庫である。

およそ10名の子どもたちが、火を囲んでトントロを焼く。

ここではいくつもの「注意」が必要だ。

煙を避ける。焦げないようにちょうどいい火加減のところを狙う。

串の刺し方を工夫する。そうしないと抜けて炉の中に落ちてしまうこともある。また、雑な刺し方だと食べる時に唇を火傷したりもする。

絶えず変幻万花する炎。それに関わる自分。こんなに体感するべきことと「体験」が重なることは少ない。しかも周りは自然環境で夏草だらけ。その上は広い空。

男たちが思いついたことを自由に口にして、生のコミュニケーションを取り合う。場がもっと面白くなるように発言する者もいる。混ざれば混ざるほど「学習」になる。

こうして一同お互いの「存在」を確認し合う。

その上で、ではもっと面白くなるには何をすればいいのかなどの話が起こる。

まあ大抵は明日の川遊びの算段などなのであるが。

大人数で食べる夕食は本当に楽しい。

野菜がいっぱい。何種類もの惣菜。そしてチャゲ鍋。

譲り合いながらも最低限自分の分は確保する知恵。

調理担当の「大沢組」は毎回腕を上げているようだ。

何度も「美味しい!」と口にしない者はいない。

全員が幸福である。

子どもたちにためになる素敵な体験を与えること。そしてそこで自分を知って、それをよくしたり変えようとするきっかけを得させること。

それにはこうした教育環境設定しかない。

連続的に参加している生徒たちの顔つきは皆良い。少年らしい。

まあ一つ苦言を言えば、もう少し後片付けに自発的に協力して欲しいと言うことになるが、これはやはりそうするように口で言うしかないのか。

夕食後、翌る日朝から授業があるので辞したが、これを引き留めようとする生徒たちがいたのがちょっと嬉しかった。

「先生、4時に起きて家に帰れば間に合うじゃん」

ふざけるな!と言いたい。