教育と未来価値観 | JOKER.松永暢史のブログ

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ふつう人は、そのことにどれほど自覚的であるかどうかは別として、ある「価値観」を持って生きているはずである。

快不快と好き嫌いーこれは感性によるところのものであり、考えた結果ではない。

人道的に正か否かーこれは経験的なものであり、また社会集団的文化的なものであろうが、思考結果によるところのものである。

では、損か得かはどうか。これは簡単で、誰もが日常していることである。いやそれは、「価値観」を持っているかどうかはわからないが、全ての動物が行なっていることである。彼らも生理的な「欲」を持ち、それを満たそうとする。

何かをする時に、あるいは決断する時に、それが正しいか正しくないかを考えるよりまず損か得かを考えるのが通常であろう。

教育には何らかの「価値観」が欠かせない。自らの持つ価値観に基づいて自らの子を教育することにならざるを得ない。

教育は、親の似姿である。その人の価値観を投影する。

もしもその「価値観」がある「型」を想定し、それに子どもを合わせるようにした場合、それが正しいかどうかは、子どもが大人になった時、つまり未来においてそれが確認されることになる。「失敗」も同様である。

すると、正しき「教育」においては、その元となる「価値観」が未来的なものであることが前提になることになる。

それは目の前の「損か得か」ではないもの。

どちらかと言えば、「幸か不幸」のようなものか。

「教育」は未来を抽象化しなければならない。

既成の「価値観」が旧くなり、新たなものも含めて多様化し、混乱化する中で、教育において正しいこと、未来的なものは如何なることであるのかを考えなければ、「教育」を行うことはできない。

「教育」において真に大切なことは何か、もはやそれを、恥すら知らぬ政治家たちに問うことはできまい。

ゆえに、正しきことは、損得を超えて自ら思考し、人間の生き方についての「価値観」を持ち、同時に未来社会で幸福になるには個々それぞれの子どもにとってどのような能力を伸ばすか、あるいは目覚めさせるかを深く考察することになる。

しかし問題は、それがわかるのはかなり聡明か齢を重ねた人たちであると言うことである。

多くの人は、自分の価値観を客観化しようとはしない。自分がどのような価値観をもとに生きているか考えることがない。

そしてそのことの欠如が、子どもの教育の妨げになっていることに気がつけない。