私の魚遍歴ー4 | JOKER.松永暢史のブログ

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いや本当にいろいろなことを思い出してしまう。

小5の終わりに塾に入れられた。家から自転車で20分くらい離れたところにある個人塾だった。これは当時の小学生に塾通いにとってはやや遠かったが、「学校の友だちがいないところ」との注文をつけたら、母がここを見つけてきた。

これまで、授業はほとんど聞かず、宿題をきちんとやったこともなく、ただひたすらやりたいことだけをやっている私の将来をさすがの親も心配し出したのだった。毎日カバンを放り投げるとおやつをポケットに放り込んですぐに出かける。暗くなってから帰宅すると、風呂に入って夕食を食べるともうフラフラ。寝癖を直さない髪型から「カッパ」と言うあだ名もついた。これには多分に「わけがわからないことをする子ども」と言うニュアンスが隠されていたと思う。ふざけて遊んでいるだけの子どもーまさにその「ガキ」そのものが私だった。

母が始めさせた習いごとは全て没になった。オルガン、ピアノ、バイオリン、フルート、お絵描き。手先が不器用で忍耐力がないから全然上手くならないし、楽しくない。家に楽器が増えただけだった。やや長めに続いたのは水泳教室とボーイスカウトだけだったが、もちろんこのどちらでも「問題児」だった。

人の言うことをよく聞かない。オモロいと思った瞬間、即座にそれを直線的に実行しようとする。空気なんて全然読めない。読もうとしない。「主体性」の塊。常に内的好奇心がその場に勝つ。友だちは笑うが、指導者はこれを見咎めた。

元軍人のこの塾の先生の体験談は面白かったが、何せずっと座っているのができない。しかも正座である。すぐに数名の「問題児」扱いを受ける一人となった。

小6から、いじめの対象になった。新しいクラスでムードが変わり、思いついたことを口にしたり実行したりすると、すぐに先生にチクられて、その結果クラス内で孤立した。学級裁判で「刑」を命じられたりした。これは実に辛い体験だったが、これによって今に至る私の「武器」の対人観察力が著しく伸びた。

塾も学校も嫌だった。我慢する時間が長くて自分のオモロいと思うことを実行に移す時間が足りなかった。

そのストレスを開放するのが、一人でもやれる釣りと熱帯魚屋だった。

 

小学校を卒業して地元の公立中学校に進んだ。そこは他の2校の小学校からの生徒が合流する中学校で、そこでどう言うわけか、ちょっとした「努力」もあって、他の学校から来た生徒たちの人気者になった。その中にヤマギシ君がいた。私はヤマギシ君ほど親しみを覚えた友だちはかつていなかった。彼は私の冗談をよく理解し、判断も優れていた。

 

ちょうどその頃のことである。ある時いつも通りに暇つぶしにマンボウに顔を出すと、店主の山本さんが、いつもと違い何かを考えながらつぶやくように話しかけた。

「キミ、タナゴって知ってるか?」

「ああ家で飼っているよ」

「エッ!ホントか?」

「ホントだよ。3匹だけね」

「それどうしたの?」

「自分で獲ってきた」

「どこで?」

「手賀沼さ」

「手賀沼かあ、遠いいねえ」

「常磐線で行くんだよ」

「家族で?」

「友達とだよ。なんでそんなこと聞くの?」

「実は最近タナゴが欲しいと言うお客が増えていて、どこかに入手先がないかと困っておるんだ」

子どもだが、変な子ゆえ、すぐにわかった。

店にタナゴを置けば、お客がやってくるようになる。そうすれば店は儲かる。

そういえば、ここのところお客の数が少なかった。店主は水槽に囲まれて暇そうに座っていることが多かった。

実は、当時タナゴは捕獲するもので養殖するものではなかった。

タナゴの養殖には、タナゴが卵を産みつけるカラスガイなどの貝が必要で、その頃はまだ難しいことだった。おそらく熱帯魚養殖達人のこの人でもまだできないことだったろう。

「そのタナゴ、何タナゴ?」

「親父は、ミヤコタナゴって言ってたよ」

「ミヤコタナゴ!」

「そうさ、薄紅がかったやつね。それよりバラタナゴの方がもっと綺麗だぜ」

山本さんの顔色がまるでベニタナゴのように変わった。

「あのねキミ、私から急にとんでもないお願いがあるんだが、もし今度タナゴを獲ったら、うちへ持ってきてよ。1匹5円で買い取るから」

1匹5円!と言うことは10匹で50円、100匹で500円、1000匹で5千円!

物価が10分の1以下であった当時、1000円は今の1万円を意味した。これはお年玉の総額に匹敵した。

「エッ、本当?」

「本当だよ、約束する。タナゴ1匹5円で買い取るよ」

ヤマギシ君にこの話を持ちかけると、すぐに彼も乗ることになった。