13日夜のリベラルアーツ(初級)は、『ウダーナヴァルガ』=『感興のことば』(中村元訳/岩波文庫)を読んだが、ブディズムが、他の儒教、キリスト教、ユダヤ教と大きく異なることを確認した。
ブディズムでは、死後の世界を天国(「極楽」ではない)か地獄に分けるが、そこでは絶対神の存在は語られない。
何よりもくだらぬ欲を捨てて、善行と禅定(瞑想して心を整えること)が大切と説く、極めて倫理的な教えである。
実はその前に、『法華経』(岩波文庫/岩本裕訳)の「序品」を読み、これが大乗仏教的元気の出る「SF」であることを示した。
これによって、日本に伝わった大乗的な仏教と、ブッダの教えに忠実な小乗的仏教の違いが明確になる。
大乗は大衆全体が幸福になることを祈願するが、その構成員の各々が本質仏教的な活動生活をする必要がないという「矛盾点」を孕む。
その結果が、オーム真理教の事件であり、現在の日本の仏教界の「実像」であり、それに対する創価学会などの新仏教の存在である。
その中でも説かれる「阿弥陀仏」は、真宗ともつながる理想の求道者である。
ここで、微妙に「一神教」ぽさが現れる。
阿弥陀仏は理想の存在であるが、実在ではない。神と同じで実在を確認できない。
サッダールマ・プンダリーカ(正しい教えの白蓮)に対しての祈り=「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経にお願いする」と言う意味で、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏にお願いする」と言う意味である。
記述作品である経典を讃えるのと、架空理想存在を讃えるののどちらが宗教的であるか。
それとも、どちらも正しくないか。
ここでは西欧アメリカのキリスト教信仰からの「離脱の現状」と同様なことが起こっていると見る。
現代社会で、「宗教」は、伝えることの本質を見失っている。
「宗教」が多くの人を救えなくなっている。
だからこそ、「スピリチュアル」への関心が高まっている。
「信じるものは救われる」―そりゃそうかもしれないが、その「根拠」が脆弱であるものはいずれ説得力を失うことは必然であろう。
弱者である「カモ」を対象とする「商売」に陥ってしまう「宿命」を持つ。
初期ブッダの説くことは、ただひたすら瞑想をして心を整えることと善行の奨励である。
祈ることが大切と言う宗教の本質的な教えーこのことが忘れられる時、宗教は「瓦解」する。
祈るだけの価値があるものーそれは現代人にとって何か。