教育の問題は世間の人の意識が変わらないと解決されない。
しかし、世間の人の意識が一度期に変わることなぞありえないことである。
とても大きな事件や体験がない限り、長い時間をかけてゆっくり徐々に変わっていくだけである。
そして多くの人は死ぬまでその意識が変わらないままで終わることだろう。
そのごく初期に「意識」が変わっていた人は、すでにそうなっていたのかそれとも考察の結果そう至ったのか。
いや、その初期判断は、「感性」によるものだろう。
直感的に、「これは違う!」と思う。あるいは、「こんなの嫌だ!」と感じてしまう。
その上で、「考察」が重ねられ、その結果、新しい意識へと移る変化が必要だと判断されるのではないか。
では、最初にそれを感じるのは誰か?
それは普通子を持つ母親であると思うかもしれないが、実はそれは当たり前のことに子どもなのである。
子どもが「変調」を来たす。それまでのその子と違ったものになってしまう。
子を愛せばこそそのことが母親には感じられるが、先に感じているのは子どもの方である。
子どもはどうしていいのかわからない。他にやりたいことがあるのにそれをすることはできない。
どうして面白くないことをやらされるのかわからない。
どうして自分のアタマが賢くなることをしてはいけないのか。
どうして「自由」にしていてはいけないのか。
ついに母親は気づく。子どもの通う教育機関とそこで教える人の多くがおかしいと。
それが何か、それのどこかかは判然としないが、とにかくおかしいと感じる人が出る。
いやそうではない。ついにはこの国で行われている普通の教育の「考え」のどこかがおかしいのではないかと。
ということは、ひょっとして「考え」が旧いのではないかと。
ではどうするか?
子どもを幸福にするには、どのような教育を選択するべきなのか。
今年はすでに学習法などいくつか出版予定が決まっているが、相変わらずその一方で、こうしたことに答える書物―この国の教育の何が問題で、子どもたちを苦しめているのかーそれをはっきりさせる本を作りたいと考えている。だが、売れないからねー『日本の教育、ここがヘンタイ!』―出版物にするには余程の工夫と準備、そして「反省」が必要だと思う。
忙しくてその暇はないかもしれないが、出版はしなくとも、こうしたブログなどを通じて、考察結果をまとめていきたいと思っている。
リベラルアーツ上級は、6日より。相変わらずルソー作『エミール』を読み進めるが、息抜きにセルバンテス『模範小説集』なども読みたいものである。
「冗談」を反省するには、そのやり方が足りなかったか、それとも質が相応しく無かったのかの考察が必要になるが、それを冗談で行うとは、いったいどういうことなのか。『狂育ドン・キホーテ』―教育本で人を大爆笑させる?―そんなことできるか。不可能であろうが、それゆえに挑戦してみたい事柄ではある。