正月に子どもと読んでやるべき景色を読んだ歌 | JOKER.松永暢史のブログ

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年末なので、受験生を主体に正月休みの過ごし方を示している。

休んでも良いが、テレビやネットなどの情報は極力遮断する。受験生には自分に必要な情報を薄めるような余計な情報はいらない。

本もできたらあまり読まない。外へ出かける。見晴らしの良いところへ行く。気分転換する。残り約一月を走り切れるように英気を養う。楽器演奏やちょっとした製作、年賀状書き、物語創作、そして絵を描くことや書き初めも良い。

父兄に「たとえば中1の子どもにどんな本を読ますことがお勧めですか?」と聞かれるので、

「百人一首をやってください。単なるカルタ取りではなく、景色を読んだ歌を、実際その景色を浮かべながら一音一音切って詠む練習をしてください。」と答えたが、今調べてみると、そうした歌が思いのほか百人一首には少ない。いくつか拾ってみると、

 

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香山 (持統天皇)―『万葉集』

 

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 (坂上是則)―『新古今集』

 

田子の浦ゆ うち出て見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山部赤人)―『万葉集』

 

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも  (阿倍仲麻呂)―『万葉集』

 

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (藤原定頼)―『千載和歌集』

 

と、万葉集が多い。

 

藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」、

宮内卿の「花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎゆく舟の 跡見ゆるまで」、

西行の「駒とめて 袖打ち払う 陰もなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ」(以上『新古今和歌集』)などの自分の感想を入れず景色そのものだけを詠む和歌は意外と少ない。

 

ところが明治以降の唱歌には、瀧廉太郎が作曲した『花』など景色を詠む歌が多い。

「春のうららの隅田川 上り下りの船人が 櫂の雫も 花と散る・・・・」―これは当時東京音楽学校の教授でのちに女子教育に尽力した武島羽衣の作詞である。

また、「菜の花畑に 入り日薄れ 見渡す山の端 霞深し・・・・」は、これまた有名な『もみじ』の作者高野辰之の作詞。 

今更ながら感心するが、そうかこんなところに国民共通の「国語」の元の一つがあったか。

しかし、歌をただ意味もわからず歌っては意味がない。音だけではない。歌の意味を、いやイメージを想い浮かべながら味わうことが大切である。

ドリル学習強要過多で算数数学に本当に必要な数学的イメージ力の発達を抑制され、言語活動ではその意味の読み取りばかりに目を向けられて、コトバの喚起する具体的なイメージ想起の能力を喪失させられる。これはわざと行われていることなのか。

日本語の一音一音のリズム、意味の伝達の流れ、そして、そこに同時にイメージ性を加味すること。

百人一首では足りない。子どもと唱歌の詩の意味を味わって見つつ歌うことも大切である。

なんとも便利な世の中になったもので、ネットなどでその実際映像を見ることもできる。

来年は唱歌が再注目されるかもしれない。