23日夕、生徒たちと『ウダーナ・ヴァルガ』を読む。
中村元博士によって『ブッダ感興のことば』と訳されるこの書物は、『ダンマパダ』と『スッタニパータ』からの引用(共通部分)が多く、これらを読んだ者がこれを書いたことがわかる。また、それら2編に比べて「布教」的意味合いが濃い内容となっているとも言える。
修行僧に向かってブッダは説く、「情欲」 「怒り」 「迷妄」 「(驕慢)おごり高ぶり」 「貪り」 「愛執」 を離れよと。そしてひたすら瞑想して、心を整え正しい目覚めを得よと。さらに、それを行うのは「自己」、究極自分自身であることを忘れるなと。
これが仏教の教えの核心部分である。
そこには、「天」、「神々」、「地獄」などの比喩表現が現れるが、ブッダが一神論者ではないことは明らか。
古代ギリシアは多神教である。ヒンディズムも、多神教である。中国もそうである。いや中国には「自然」と「聖者」が加味される。さらにその隣の海を渡ってニホンに来ると、完全に自然そのものが神となる。
対して、ユダヤ教も、それから発したキリスト教もイスラム教も一神教である。
古代ギリシア、中東ユダヤ教、ローマキリスト教、中国儒教・道教、インド仏教と読み進めてくると、古代人たちの世界観を比較対象し、その共通点を抽出することができる。すると「宗教」が「不要」になる。すべての宗教の言っていることは同じである。「善く生きなさい。そしてそれを他者のためになるように用いなさい」・・・このことを認識することが、一応この中高生相手のリベラルアーツ、つまり「自由を得るための技術」の一つの到達点であるが、これは古くは旧制高校の寮で偶然行われたことであった。
ルソーは共同体には宗教が必要であると書いた。
多くの人が無宗教なりつつある現在、逆にリベラルアーツ的教養が大切であることが浮かび上がる。
ブッダの、「情欲、怒り、迷妄、驕慢(おごり高ぶり貪り)、愛執 を離れよ」と言う言葉はいささか耳に痛いが。