東京都の小学教員採用倍率が1、1倍になったことが報道されているが、これは2、3倍だった21年度に2600人の採用だったのが今年は4926人に倍増したためである。
これは都知事の判断か。教師がどんどん辞めるので、とりあえず希望者はできるだけ多く採用してしまおうという考えだと思われる。
教師の仕事に適性があるかないかは採用してみないとわからない。成績は測れても性格は測れない。だから多く採用して生き残れる者を使おうという考えであると思われる。しかし、現行のシステムの中で生き残れる者が、果たして教育に適性がある者であるのかどうかは怪しい。教科別で抜群に倍率が高いのは体育科である。
「定員割れ目前」とメディアは書く。また、「残業代の出ない長時間労働」とも書く。
しかしそれでは、子どもたちの側でも、いじめ、不登校、自殺者数が増えることの説明になっていない。このことと、辞める教師が多いことと教員志望者数が伸びないことを同時に語る「視点」は、あたかも「コード」があるかの如く、あえて捨象されることになっているようだ。
政府ならびに教育委員会には、システムを変えるという発想はない。
それは、自分たちのことを考えて、「不可能」なこと、考えるべきことではないことだと判断される。
というより、そうしたことを考える力がない。
「ヴィジョン」を想い描く力がない。
しかし、このままできるだけ「無事」でいるにはどうしたら良いか。
それは相手に気が付かせないこと。
つまり、できるだけ多くを「無知」のままにとどめること。
ここに政治とメディアの共有点がある。
「育てるのは東京の未来だ」―東京都の教員採用ポータルサイトにはそうある。
「働き方改革、進行中」ともある。
東京の未来を支えるのは無知の日本人労働者。
その通りかもしれない。