小中高生の不登校者数過去最大
同じく自殺者数過去最大
いじめ件数も過去最大
同時に、教員採用試験志願者過去最低
教師の多数は精神疾患で退職
この「状況」の中で、滋賀県東近江市の小椋正清市長が、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」旨の発言をして問題になり、「不適切であった」とし陳謝することに追い込まれた。
「かねない」と言うのは、つまり「可能性がある」と言う言質なので、この発言が間違っていることにはならないが、小椋氏が指す「国家」とはいったいなんであるのかを考えざるを得ない。
「国家」の概念は明治以降であり、その前「クニ」とは、「江戸っ子だってね、寿司食いねえ」みたいに、自分の住む周辺地域を拡大したものだった。
250年以上も続いた封建体制、これが旧弊化する中での外圧で、近代的統一国家を作らざるを得なかった時に、英国からの資金を得た薩長が行ったのが明治維新だった。
封建制で各地バラバラであったものを一つの統一国家としてまとめ上げようとするためのシンボルが「天皇」であり、日の丸であり、そして君が代だった。
この意識変換に使われたのが学校教育であり、これは第二次大戦の悲劇に結びついた。
起立礼着席。国旗掲揚。君が代斉唱。おまけに教育勅語。何もわからぬ者でもこれに従わない場合体罰が加えられた。
そして国民はそれを当たり前のものとして受け入れ続けた。
その「国家」とは、「郷土愛」とは別の、自分と結びつけにくい「概念」であった。
小椋市長は、警察官僚の出身で、学校教育での起立礼着席、日の丸君が代を当然のように受容し、そして就職後も「気をつけ!右向け右!」を行う部下たちの姿を目を細めて眺めてきたことだろう。つまり、72歳のこの人は「洗脳」されていることに気がつけない人である。150年前の「国家」の理念がそのまま続くと思い込み、その根幹を担う学校教育が崩れかねないと認識して、フリースクールを批判の材料にする。そうではなくて、どうして冒頭に掲げた問題やフリースクールが増大するのかを、その背後の事情を読み取っていこうとするのでなければ政治家として無能であると言わざるを得ない。そしてそうしたアタマの旧さへの無自覚こそが国家の根幹を崩すことに繋がりかねないことだろう。世は、学校教育の代わりをするものとして、デンマークなどのように資金提供する国がある時代である。
ちょうど20年前に、今日の都教育行政の破綻のきっかけの一つともなった、石原慎太郎都知事の「日の丸君が代強制政策」の通達があった。自由人である石原氏は、「日の丸は好きだけれども、君が代は滅私奉公みたいで好きではない」と言って、「君が代」を「我が日の本」と郷土愛的視点に変えた歌詞で歌っていたという。だとするならば、「民が世」と歌うことも許されたはずである。
でも、教育の場ではそれを強制した。それはなぜか。それは実はこの天才的人物がこのままではやがて教育が破綻することを見破っていたからだったのではないか。そして、その対処をどうするかの時に、とにかく言うことを聞かせる習慣を与えるしかないとやや傲慢かつ単純に結論したからではないのか。実はその頃はもう、起立礼着席日の丸君が代のための「強制手段」である体罰を行うことができない時代になっていたのだが、自分が子どもの頃に家と学校教育で刷り込まれた儒教的文化の衰退を意識化することを捨象したのではないか。
少子化、核家族化、これが大半になれば儒教的上下関係教育を家庭で行うことはできない。「ママの言うことを聞きなさい」とは言っても、「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」は通らない。ましてや「パパの言うことが絶対」などとやっているご家庭は少数であろう。学校教育側から見ればこの「躾の足りない」子どもたちを強制的に従わせようとすることは、体罰的強制がなければ絶対に無理である。現にその変換に特別支援学級を用意せざるを得ない。そして男女共同参画政策の下で、女性が働くことも当たり前になり、学校はその働く間の「保育所」の役割をするところであることが明らかになった。
明治維新後的国家儒教教育に「洗脳」されていることに自覚的ではない小椋市長らの持つ教育観は、本人たちには客観化できないものであり、これが自民党を中心とした政治家たちに共通する教育に対する無自覚な意識であり、そこに文科省的既得権益が絡んでいる。彼らには子どもたちの苦しみの声が感じられないのである。「国家」の未来への愛がないのである。
これでは、学校を直観的に嫌だ!という子どもと、学校に子どもの未来を願って通わせることができないと判断する親が増えるのも当たり前のことである。
愛国心―「国家」への愛とは、その国家を作る「国民」への愛が元であろう。「国民」の未来への愛がない時、「教育」も「政治」も成り立たない。無意味化する。
埼玉県の留守番禁止条例も、現実を全く顧慮しない古いアタマの政治家たちがどんなに多く当選してしまっているかを物語っていると思う。