喬木村大島ー5ー自分が生まれ育ったところと真逆の地域 | JOKER.松永暢史のブログ

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帰路通りがかりで、先の老人の庭に招き入れられ、玄関先の澄み切った水が流れっぱなしの生簀に、晩酌の肴のために調理された小鮒の生き残りが10匹ほど泳いでいるのを見た。これもやがて大きくなれば食すと言う。水が豊富なこの村には、どの家にも玄関前に深い生簀があり、そこで鯉などを飼って食用にする。水は流れっぱなしで、井戸は不要である。ここは、以前何度か滞在した内山良一さんの住居の近くで、すでにその建物がないことを確認した。この内山さんは元蚕の専門家の一種の「賢者」で、色々と学んだことも多かった。この人についてはまた機会があれば改めて書きたいと思う。

 

実はこの旅で喬木村を訪れたのにはもう一つ別の目的があった。

それは喬木村の南部の山中の矢筈トンネルを通行して、伊那山地の東側の国道152号線に至る道を走ることである。

国道152号線は、北信上田から諏訪を通って、杖突峠、高遠、分杭峠、伊那山地と赤石山脈の間を、ほぼ中央構造線に沿って南北に貫いて太平洋岸浜松に出る街道で、かつて「塩の道」と呼ばれていたこともある。ところがこの国道152号線は、下伊那郡大鹿村と飯田市南信濃の2ヶ所で通行不能となって、険しい林道を迂回しなければならない「酷道」と呼ばれている。しかし、諏訪方面から伊那谷を経て太平洋側に至らんとすれば、これしか道がない。

北から地蔵峠の「蛇洞沢林道」、青崩峠を迂回する兵越峠の林道を「飯田市道南信濃156号線」、峠を越えて静岡側を「浜松市道水窪白倉川線」と言う。

両道ともとんでもないぐねぐね山道であるが、信玄がこの兵越峠を越えて遠州へ出ようとしたのもこれ以外に道がなかったからである。

それと言うのも、これは伊那山地東側を通る中央構造線の上を走る道で、フィリピンプレートが食い込んで山が年に4センチくらいずつズレているので、常に崖崩れが起こる地域だからである。

「青崩」―なんと言う名前だろう。これはフィリピンプレートの青い堆積岩が絶えず崩れて青い岩だらけだからである。ここには国が何度かトンネルを通そうとしたが、完成間近になって高速道路には使えない事態に陥り、「152号線」となっているが、通行不能になっているのである。全国でも珍しい、長年開通しない国道である。

前回、諏訪からこの地域を訪れたときは、地蔵峠が工事中で通行止めになっていたので、それより南下することができず、中央道がある松川まで迂回しなければならなかったが、今回、地蔵峠を通らなくても、この地域に入る道を「発見」したので、それを走ってみることにした。

それは喬木村南部の山中の矢筈から東に伊那山地を貫いて4176メートルの矢筈トンネルを通行することである。この矢筈トンネルは、青崩峠通行不能問題の関係から端を発し、三遠南信自動車道着工当初に建設され、1994年に完成していると言うから結構古い。地図で見て、山の中に突然高速道路があるので不思議だった。

その名も「喬木IC」から入ると、無料区間ですぐトンネルに入る。およそ5分で長いトンネルを抜けた反対側は伊那山地の東側の上村の程野で、中央構造線の露頭が見られることで有名なところである。面白いのは、ここも飯田市になっていることである。伊那山地と南アルプスに挟まれた「遠山郷」と呼ばれるこの地域には南信濃村と上村があったが、両村合わせて人口3000人に満たない、赤石山脈山頂までの広大なこの地域は、2005年に飯田市に編入された。これはこのトンネルの完成の影響がとても大きかったと思われる。飯田まで40分で行けるようになって通勤通学が可能になったという。しかし、飯田に出る途中の喬木村は農村自主自立の方向性を選択して合併に同意しなかったという。

トンネルを出たところで152号線と合流する。この先で青崩峠を迂回する兵越峠を越えれば、太平洋側浜松市天竜区に至る。

兵越峠では対面車両に全く出会わなかった。路面にやや木や石は散在しているが、舗装された県道369号線である。

E69三遠南信道は、つい最近、長い苦難の末にコンクリートを通常の3倍使う工法で青崩トンネルを貫通させたとのことなので、これが開通すれば数年後には兵越峠への迂回が不要になることになる。もしこの線が152号線を併用しながら開通すると、飯田〜浜松間が1時間ちょっとで結ばれることになる。信じられないことである。終点は、E1A新東名浜松いなさJCTで、そこから約10キロでE1東名三ヶ日JCTにも接続。名古屋まで約80キロである。しかし、飯田から中央道で名古屋へは100キロ余りである。するとこの「恩恵」は、長野最南部と静岡最北部の山村地帯の人の上にあることになるのか。とにかく市町村合併の背後には、道路建設事業が並走していたことがわかる。

今回長々と喬木村のことを書いてきたが、それは実はそこが自分の生まれ育ったところと真逆のところだったからであり、その体験を若き日にしたことが非常に有意義であったと実感したからである。

私の生まれ育った東京区部は、後から東京に来た人たちが住み着いて、そこで世代交代をしている地域だった。地元にずっと住んできた人はごく少数で、あとは、どこかの地方から東京へ出てそこで職を得て、結婚などして生活し続けることになった人たちだった。私も祖父の代に新潟から東京へ出てきている。

なぜ東京に出てくるのか?それは地方では良い職が得られないからである。そうでなくとも、農村地域の子どもたちは勉強がそれなりにできるようになると地元の高校や大学を卒業して役人としての仕事や教員としての仕事に就いて、不安定な農業をやめて、公給をもらって安定を目指す人も多い。こうした人は山から街に出て生活することが多い。農業はもう頭打ち、収入を増やすことはできない。それどころか減反政策による補助金だ。

家がそれなりに裕福か、それとも割と優秀だったりして、都会の大学に進学した者は、もうほとんど田舎に帰ろうとは思わない。そこで就職することを選ぶ。そして縁あって知り合った人と結婚して世代交代する。生まれた子どもたちも都会を生活基盤にする。

逆に田舎は、どんどん人が出ていき、残った者も高齢化して、若い人がいないから世代交代もない。どんどん過疎化する。

都会に出てきた人たちが脱出してきたところー17歳の私にとって真逆の、その究極が長野県下伊那郡の山の中の村だった。

自然環境が充分あって余分な情報がないところに置かれれば、まるで刑務所の囚人がするように、怠け者の自分ですらも何か勉強するようになる。それは「自然」なことなのだった。

しかし、それよりもこの村での「社会体験」が何よりも大きなものを自分に与えたと思う。

出ていくための懸命な努力とその動機。

生き残るために懸命に絞る知恵。

今その懸命を継続してきた一所が消える目前にある。

自分の生まれ育ったところと真逆の地域が消滅しようとしている。

そのことへの思いを書き記したかった。