52+55はいくつですか?と尋ねると、多くの人は「107」と即答することだろう。
しかし、57+48は?と尋ねると、多くの人は即答しない。
それはなぜか?
それは紙に書いて繰り上がり計算をしなければできないように教育されてしまっているからである。
確かに正確筆算は大切かもしれないが、これを50と40で90、7と8で15、合わせて105とまるでコインを数えるように即答できないのはなぜか?
正確な計算は計算機を用いれば確実にできる。
だが、数値の具体的なイメージ暗算は人間がその「知能」の高さゆえに可能なことである。
単に計算ができることではない。数学的思考を可能にする。
それによってアタマの中のイメージ空間を拡張し続けること、このことに結びつかなければ、算数・数学脳の発展はないし、意味もない。
中2以降の数学で躓(つまず)く子どもの多くは、小学4年生時点での繰り上がり繰り下がりが暗算でできるようになっていない子どもたちである。
繰り上がり繰り下がりを暗算でしようとすると、瞼の裏で数値をイメージして答えを求めることが必要になる。
この能力を奪っているのがドリル学習の一方的過多である。
これはパズル的試行錯誤思考の訓練の未熟と同様に、自覚されないまま放置される。
また「指導者」の側にその認識がないことも多い。
私は敢えて言う。
これは国語力の国民的発達抑制教育メソッドと同様、米国支配下における為政者の意図的な「放置」であるに違いないと。
「バカ」にされていることに気がつくことを恐れる人に対する「政策」であると。
植民地政策下の人をできるだけ賢くしない。放置すること。それは「宗主国」とその国の「支配層」との合意である。
生活のために黙って働く人、割に合わない労働を引き受けざるを得ない人、確かにこう言った人たちが国家には必要かもしれない。
しかしそのために、本来持っている知的能力を抑制するような教育政策はいただけない。
そして日本人が引き受けなくなった労働を、農業生産、工業生産、建築現場などで、言葉のおぼつかない外国人を「輸入」して、補おうとする。その前段階が、知的能力を抑制する教育を受けた「層」である。今に自衛隊でさえも外国人を使うようになるだろう。
そして逆に、最先端のIT産業では、高度な数学的思考のできる人材が圧倒的に不足しているという。
少子化対策とか盛んに言われているが、ただ子どもが増えるだけでは話にならない。それよりも子どもが賢くなる教育をしなければ、意味がない。そしてそうではないことを感じ取った人は、これからも子どもを作ろうとしないだろう。