さて日が変わってすぐに未明に近地点。あと1時間で満月がやってくる。
外では台風の影響か風が強く吹いている。
出生数の低下が問題になるなら、すでに生まれた子どもたちの教育はどうするのか、それが問題になる。
すでに書いたように、この国の「教育」が回復することはおそらくない。逆にさらに悪化の傾向を辿ると予想される。
不登校は増え、特別支援学級のニーズが高まる。教員数も不足する。
中学入試は志願者が高止まりし、お金があるものは皆私立かインターナショナルスクールに逃げる。
中学校教育が「破綻」していることは明らか。その下の小学校でも不登校は拡大している。
大学受験を前提とする高校教育は、相変わらず膨大な量の知識の詰め込み要求。
そして、大学ではインチキ教養課程と、驚くほど人間的レベルが下がった教官による授業。
マクロで見ると、よくわからない人を騙して時間と金を巻き上げているようにしか見えない。
一番上の大学までもがその教育能力に疑いがあるのであるから、その下の高校、中学、小学校では、教育能力どころか教育の意味を考えない人たちが子どもたちの相手をしていることも多い。
こうした教育に長年さらされると、子どもたちは自発的にものを考えたり着想したり実行したりする能力を奪われ、ただ周囲の状態と上からの命令を気遣って生きれば良いと言う人間になる。それでも良い。私たちの社会を支えるには、そうした真面目に言うことを聞く人間も必要だ。
しかし、そうした人間ばかりになるとどうなるか。疑わない、判断しない、考えない、思いつかない、おまけに感じない人間ばかりになったらどうなるか。それはこの世界資本主義社会、「搾取」の対象になる国家になること請け合いである。
我々からすれば、その「カモ」の一員になるのは真っ平御免である。
だから我々は、国家や他者機関に教育してもらうことを諦めるべきである。
自分たちで考える教育を行い、それを示していく。
公教育が与えてくれない力を自分たちで培う。
テキストを自分で読んで理解し、学んだことを文章要約して確認する。
日本語テキストを読む基本は、日本語古典の音読練習にある。
文章化は、抽象構成法でOK。
英語は、ネットでも充分学べる。良い聴覚器具を用意し、とにかくたくさん音読する。
数学はサイコロ暗算とパズル学習的思考を基本に、テキストを自分で読み進めていく。そしてできるだけ早く数Ⅲの範囲に届く。
世界史などは予備校の授業なんて受けてないで自分で全集を読んで仕舞えば良い。
知能向上のための学問の他に、これからの人間として欠かせない心情表現を目的に芸術的活動を行う。フィールドワークと文章作成を行う。
子どもの中に潜在する芽が育ってくることを潰さない。子どもが自ら学んだり表現することを楽しんで行うようにする。
そしてそういうふうに育てられた子どもを拒む教育機関はない。
それは彼らがそれができないからであり、大学はそうして自分でテキストを読み自分で発想し自分で考えてしかもそれを文章化できる生徒を文句なしに受け入れる。
子どもに無駄なことをさせる教育を受けることを諦める。もしくは利用しているが、単に卒業資格を得るためであり、その教育に期待しない。期待してもほとんど無駄であることを悟るべきである。見よ、有名進学校の生徒ほど有名進学機関を利用しているではないか。でもそれではダメなのである。大学が期待するのは自分でテキストを読んで理解する人材なのである。塾で叩き込まれて「優秀」になったとしても、それは大学での研究や学問には役に立たないものなのである。
とにかくテキストを自分で読む。
そして体験が全て。
大学受験のための余計な勉強をできるだけしないで、他の活動によって独自の能力を磨いていることが大切である。
入試の面接で聞かれることの定番は、「君は勉強以外に何をしてきたか?」である。