違憲教育について | JOKER.松永暢史のブログ

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今から45年前の夏。

私はアフガニスタン北部のマザーリシャリフから西部マイマナに至る砂漠で臨死体験をした。

「臨死体験」が大きいのではない。

そこで生き残ったと言う体験から来る哲学的見解が大きいのだ。

生きる上で実は何も重要ではない。

必要なのは水と食物、命があること、そして次の行動の選択が自由であること、もしそうだとすれば文句なしに男は「ラッキー!」。

これは、戦後生き残った人たちの多くが暗黙裏に了解した「現実」だったであろう。

「可能性」と言う「ギャンブル」。

自分は、「戦後」12年に生まれてその「空気」を吸った。

何事も想起して実行に移さなければ無意味。

体験から学ぶことが全て。

これが21歳の筆者が知ったことである。

幸いなことに命がある。

ではその命を用いて何をするか。

あるいはどう生きるか。

それはその人間の決断である。

若いなんて最高ではないか。

いずれ衰える体力を意識せずに「秋霜烈日」無関係に動き回れる。

思いついたことをすぐ実行に移せる。

だからこそ、命が保障されて、そこに行動選択の自由が与えられれば、あとは何か良いことを思いつこうとするだけ。

だから、思いつく力―そのことを育成することを忘れさせて、いや奪って平気である戦後現状日本教育は最低であることになる。

だからこそ、不登校になる、インターナショナルスクールに行く、自由な私立校に行く、いや海外の学校(特にカナダ?)に逃げる。

子どもの発想力を奪う教育。伸ばさない教育。いったい何のためにあるのか。

起立礼着席。

「余計なことを考えるな。黙って言う通りにしろ」

これによく従う者が「成績優秀」になる?

思いつかない者がリーダーになる?

気が付かない人は「助からない」。

わからない人はわからない。

でも気がついた人は「発動」できる。

これまでの日本人が「常識」と考える常識を逸脱する。

これまでの「教育」はこれからのための教育にはならない。

難しいのは、それを海外体験なしで認識することであろうか。

命と行動の自由が与えられればOK。あとは「命令」を待つのではなく、自分のしたいことを自分で思いつくだけ。

これはある意味でこの国の憲法の教えるところではないか。