午前3時に起きた。
いつも通りに入浴・瞑想・朝食・デスクワーク・洗濯物干しを終えると、自転車で御殿山事務所へ。
まず魚に餌をやり、ベランダ植物に水を撒いて、オクラ3本収穫。
玄関前に「アート」を飾るための棚をDIYするために寸法を測り、すでに購入してあった柱のオイル塗りをして自宅に戻って車で出る。
コーナン東八PRO店は、朝早い職人たちのために6時30分から営業している。
ここで木材と金具類を購入して、それを事務所入り口に下ろして家へ戻る。
すぐにまた自転車で御殿山に向い、作業開始。
悪戦苦闘3時間。なんとかだいたい設置完了。
家へ帰って、冷蔵庫残り物昼食。
午後から授業後、帰宅して車で食料品買い出しして、戻ると水まき&シャワー。
枝豆を茹でて、磯辺揚げを作る。
で、やっとデスク。
何もかも、まず自分にとって損か得かを考える。それ以外の判断基準は忘却されて自覚されない。
他人の損は自分の得?
誰かが損すれば自分が得する?
本当にそうか。
でもそんなことがあるわけがない。
周囲他人が「得」をすれば、それは自分にとってもナチュラルに「嬉しい」ことであるはずである。
そうではないか。
それが本来の感覚だと思う。
生きるとはどう言うことかを考えるのは「哲学」であろう。
で、世界の諸宗教書を読み漁ってそれを抽象化すれば、
「祈りなさい!そして善く生きて人のためになることをしなさい」
と当たり前のことになる。
そこには、損か得かをまず考えなさいと言う教えはない。
それはなぜか?
それは、損か得かをまず考えると、「宗教」にならなくなってしまうからか。
「御利益」と言う言葉はある。でもそれはまるで医者の看板のように空々しい。
どうやら「損か得」を考えると「宗教」にならないらしい。
しかし、考えてみれば、そりゃもっともなことだ。
そこでは「救済」の意味が消滅してしまう。
それにしても「得」はしたくなくとも「損」はしたくない。
でも、もしそう考え始めると、世を疑って騙されないように注意することが必要になる。
そしてそれは、損得で判断している人間を見極めようとすることになる。
すると、「ダメだ。そんなことをするより、自分も周囲と同じように何も考えないふりをしよう」と言うことになる。
損得を考えない人間は、資本主義社会の「カモ」になる可能性が高い。
でもそれを考えることは宗教的に矛盾する。
実は人間は、「哲学」がないと人間らしく生きられないのではないか。
真善美の価値判断には、「損得」はない。
「損得?」―それでは生きていることの実感満足は得られない。