母親に感謝する子どもたち | JOKER.松永暢史のブログ

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近地点過ぎて驟雨春雷。

庭では、スイセン、チューリップと咲き終わって、今はフリージアが満開で本当に美しい。じっと見続けていることができる。

イべリスも続いて咲き誇り、タイツリソウも花穂を伸ばし、茂りに茂ったオランダカイウは、まるで開いたアヒルの口のような奇妙な花を何本も咲かせている。

池では恒例のオタマジャクシがたくさん泳いでいる。

北野某さんがメルマガで紹介してくださったからか、おかげさまで『日本の教育、ここがヘンタイ!』売れ始めているが、さらに多くの人に手にして欲しいと思う。同時にその「次」を考え始めなければならない。

最近、面白い講演の依頼があった。

それは、「先生がこれまでご著書に書けなかったことを話してください」と言うもので、出版というものについて改めて考えさせられた。

通常の出版物は売れることを目的にしている。

「売れる」とは、発行部数が多くなることであり、多くの人に読んでいただくことである。

そのためには多くの人に嫌われない内容である必要がある。

私の最大のベストセラーは、2006年に刊行した『男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』であるが、これはそもそもは、男の子に間違った教育をして気づかない母親に、教育コンサルタントとして注意を勧告することが執筆目的だった。

男の子のオチンチンをダメにするな!

それが出版社意向で、女性リライターによって女性読者を不愉快にしないものに整えられた。

私は私のもとへ直接来た母親には、子どもの前で遠慮せずに注意する。

そのことの主体は、モンテッソーリ教育的に、子どもが何かに集中している時にちょっかいを出さないということである。

面白いことに、これにお隣の子どもたちが非常に喜ぶのである。

「アッ、ママまた叱られたね」。

子どもがアタマの中で何かを連続的にしているときは、その結果がどうであれ、体験的な学習をしている時であり、そのような時に子どものアタマは良くなっている。

だから、子どもが何かに集中する環境を整えたらあとはじっと見守るというのが正解なのである。

母親たちは、子どもの成績を良くしたい。世間的に見て劣らない学歴を得させたい。

こう単純に考えるのが普通である。

しかし、そのためには子どもの知力が順調に伸びていくということが肝要である。

他でもない。せっせとその邪魔をして気が付かないのが世間一般の母親なのである。

子どもと一番長く接しているのは母親である。

だから、母親こそが子どもにとっての「教師」なのである。

日本の学校に通ってもアタマが良くはならない。

そこでは言うことを聞く人間を育てることが目的であり、知力の伸長は偶然の結果である。

ということは、学校以外の場でこそ知力の伸長が図れるということになる。

そして、子どもにとっての「教師」は、母親である。

子どものアタマをよくするには、アタマが良くなるとはどういうことかを、その教える者が知っていなければならない。

つまり、もし自分の子どものアタマをよくしたければ、その前に母親がそのアタマをよくしようと思わなければならない。

現在の自分をアタマの足りない者であると再認識して、これを自分から変えようとしなければ子どものアタマは良くならないということである。少なくとも自分も向上しようとする「エネルギー」をその母親が発していなければならない。

もちろんこんなことは現代の「イケてる」と思っている女性には通じない。

てなわけで、このような内容は本には書けない。

読者が不愉快になること請け合いである。

ということは、「売れない」。

つまり、出版社が認めない。

土曜日にリベラル上級でウェーバーを読んでいると、ムード的になかなか有意義なものが感じられてきて、「こんなもの読んでいる中高生は他にいない」という声が出た。

すでに「脱落者」が出始めたリベラル上級であるが、ここで生き残った者たちは、かなり「優秀」である。通常の中高生のレベルを遥かに上回っている。一人が最近面白がって読んでいると言って、梶井基次郎の短編集を取り出してみせたので、「センスいいね!」と褒めた上で、自分が全集(たった三冊)を持っていることを告げ、好きな作品を上げ、ほんの数行を音読すると、これを聞いた他の参加者から、「なんて上手い文章なんだ!」という声が上がったが、この声の生徒はすでに自分も小説を連載する「作家」だった。だからこそそれがわかるのである。

参加者の一人は、「うちの父親はマックスウェーバーを読んでいるはずだ」と言う。

「マックスウェーバーは超有名なんだけれども、読んでいる人は意外と少ない。何しろこの内容だからね。これは注の多い論文だ」。

こうした会話が普通にできることに、私も生徒もそれをまたとない機会であると味わい嬉ぶ。そして、一人が口にする。

「もしもうちの母親が先生の、いやマッツァンの本を読んでいなければ、ここでこうしていることはなかった。これは自分ではたどり着けないことだった」。

これには全員が同意した。いささか面映いこと甚だしいが、彼らは優れた母親を持ったことを「幸運」で「感謝する」と言うのである。いや感謝すべきは彼ら自体の存在なのかもしれない。私も自分の母親に感謝する存在である。今年もカーネーションが売り切れる前に買わなければ。

それにしてもいささか長くてキツい。第2章を読み進めたがまだ道半ば。我々はこの本の掉尾の、「心情のない享楽者」、「精神のない専門家」と言う警句に行き着くことができるのだろうか。

リベラル初級は、22日に『ソクラテスに弁明』後半を読み切る予定。