都立高発表あって、懸念していた3名生徒全員無事合格した。これで今年は全員志望校に進学することになる。
この中には、3月17日刊行の(読者は予約注文してね、絶対オモロいから)『日本の教育、ここがヘンタイ!』に寄稿した、「奥多摩少年作家連」の生徒も含まれた。
やはり「少子化」なのか、中高大と合格進学しやすくなっている感触がある。 「N校」などを選択する者も増えているのだろう。
保育園児たちが遊ぶピンクの公園の梅が綺麗だ。夕方西空の金星と木星はすでに「位置変換」したが、まだまだ「結びつき」を感じさせるが如く「近い」。
4日は遠地点で、7日に満月。
中学受験は、相変わらずカタカムナ音読と抽象構成作文法が合格充分な力を与えることが「再確認」された。
皆、「カタカムナ音読法」と「抽象構成作文法」の学習者である。
古典文音読直解できて、出題者要求通りの文章を構成できれば、それだけで何とか合格してしまうのである。
それはなぜか?
それは「世間一般」がまだそのことに気がつけないからだと思われる。
あまりに「単純」過ぎて考え及びつかない。
子どもの読み書き能力を高めるーそれが基礎教育の柱である。
いかなる受験勉強にも先行して、まずアタマを深くすること。感性と同時に認識力と表現力を高めること。
そのことによって、その子どもに潜在する、他者にはない能力を認識させ、顕現させ、そしてそれを習慣化させること。
その「観点」がない、教育学も、心理学も、そして社会学や哲学の大部分も「データ不足」の無用の産物である。
公教育、私立学校、そして大学教育などの「教育機関」については言うまでもない。
「了解」が「年齢」に関係がないことを認知させる。
それには実は、知識よりも体験の認識の積み重ねの方が重要である。
体験的認知があってこそ、それなりの認識の深まりと積み重ねがある。
言うまでもなく、それを与えるのは「焚き火」と「リベラルアーツ」だ。
そしてその各々の「認識」は、「言語」によって司られる。
子どもに与えるべきは、とにかく言語的了解能力を高めること。
でもそれに対する核心的なメソッドはなかった。
体験的な快感を「アウフヘーベン」する「知的な快感」。
そしてその「認識」。
その機会はむしろ、「学」よりも、心情表現研究の「芸」や「術」の場にあるのではないのか。
いや、「両者」にある。
好奇心と追体験
感受と心情表現
自発的な快感の追求を忘れる。
そのとき、人は「人」ではなくなる。
以上、「教育化け猫コンサルタント」が書いた。
明日18時西荻最後の「リベラルアーツ」会読を行う。