アタマが良くなることはまるで美味しい果実を口にした時のように「美味しい!」と子どもが感じる癖をつけさせたいものである。
手足体が大きくなることは子どもでも実感できるが、アタマが良くなっているというメタ認知的な認識は、教えないと知らないままに終わることが多い。
そのためには、指導者は、何らかの体験を共にし、これに「並走」し、いや「盛り上がり」、その上でその体験が何であったのかを共有する必要がある。
言葉にすると大抵ダサい。しかし心の中では共通確認される。
「学習」とは「体験」の積み重ねに他ならないと言うのは私の考えである。人は体験することによって学ぶ。「体験」が全てである。ではその「体験」によって成長するとすると、その時実は一体何を学んでいることになるのか。
軽度な同じ怪我を何度かすれば、やがてふつうそれをしなくなる。それはなぜか。
楽しい遊びを何度かすれば、それに上達する。しかし、それはなぜか。
そしてその「体験」は他の行動や遊びなどをする時にも役に立つ。
「体験」が私たちにもたらすもの、それは何か。
そしてまた食生活同様、どのような「体験」の摂取を心がけることが「正着」なのか。
そのためには、「体験」によって得るところのものの抽象化が必要である。
私たちは、「体験」によって何を得るのか。
その「体験」によってどのような反応や変化が私たちの脳内に起こって蓄積されるのか。
まずそのことが明らかになろうとしなければ「教育」は成り立たない。
子どもに与えるべき「体験」の解明と抽象化。
それはいったい誰のするべき仕事なのか。
政治家?教育学者?脳生理学者?哲学者?
ともあれ単純な自然体験の最たるものーそれが「焚き火」であることは間違いない。