29日にEDORG音読指導者養成講座の認定審査会を行った。関東各地を主体に13名の出席。大阪からの参加者もいた。これでこの一年で50名の音読指導者が誕生したことになる。多くは女性であり、男性は少数であるが、この人たちは長年にわたり私塾を経営してきた人たちである。
子ども相手にある程度の期間教え続けていると、とにかく教育上全ての最終的基本的問題が言語力であることが明らかになってしまう。
子どもに学力をつけさせるためにはまずその言語能力を高めなければならない。
多くの教師はそのことに気がつかないか、「不可能」として捨象する。
あらゆる学習の元である言語力が未然の子どもへの指導はどうすれば可能になるか?
この問題を単純解決したのがカタカムナ音読法である。
また算数がよくできるようになる子どもを育てるにはどうしたら良いか?
これを単純解決したのが、サイコロ学習法である。
さらに音読修了者に抽象構成作文法を教えれば、どの子でもホイスカ文章が書けるようになる。
コロナの影響で、また受験現場の「変容」で、進学塾業界は苦しいと見ていたが、今のところ「倒産」の報は聞かれない。
私のもとへは、相変わらず進学塾に通わせるべきかそうではないかと言う相談が多いが、私は進学塾に通うだけの「準備」ができてから通い始めることをお勧めしている。それどころか本格的に通うべきは6年の夏休み以降で良いと言う考えなので、3年生で進学塾通いを相談されるとこれに正しく回答するのはなかなか難しい。
自分の目的の学校に合格するために必要なのは、もちろん「学力」であるが、その学力の付け方が問題である。
受験する学校が思わず「欲しい!」と思いたくなるような子どもを育てる。
単なる「偏差値」よりも、そのことの観点が大切なのではないか。
入学させた子どもの能力や学力を伸ばして、将来社会に輝く人材を育てる。これが学校教育をビジネスとして組織する者たちの根底的目的である。もしそれができれば学校の評価は高まり、絶えず生徒数を確保して、卒業生に喜んで寄付金を払わせることができる。
学力が高ければ文句はないが、有名進学校の教師たちが、長年塾で詰め込み教育をされた生徒を取りたがらないのは、入試問題傾向からも明らか。先行詰め込みをされた彼らの多くは進学後、学年が上がるにつれて成績が伸びなくなる。これはただ教えられたことを吸収するだけで自ら考えることの習慣の喪失による。代わりに結構ヤンチャで、色々なことを体験した上で適宜な期間の受験勉強で力をつけたような生徒を欲しがる。彼らは入学後の「伸び代」が大きいからである。
そしてこのことを総括すると、中高一貫公立校の「適性検査」の存在が大きく光を増して来よう。
中高一貫校の適性検査は、言語了解能力が高く、しかも問題発見・解決能力が高く、パズル的数学思考ができ、フィールドワーク的体験を充分に行い、おまけによく本を読んですらすら文章を書くことができる生徒を求める出題である。そして、私立の中学校でも、このタイプの生徒を求めることは先ほども書いたように明らかである。
で、あるとするならば、小学5年までにするべきことは、音読により言語力を高め、読書力をつけ、さらにフィールドワークの機会を多くし作文を書かせ、算数学習の基礎である暗算力とパズル力を高めておくことになるが。
進学塾は、共稼ぎ世帯の痛いところをついてくる。4年からは「学童」が使えないところも多い。彼らは完全な経営戦略を持って勧誘している。そのやり方には、不安を持った人たちに対する最近やや問題になった宗教団体の手口とも共通するものがあるが、その戦略はさらに複雑で、おとなしく長期にわたって子どもを預ける親たちをどのようにすれば「ルアー」できるのかを、ママ友同士がやや遅れた情報を物知り顔して噂話で話して共有することも前提にしているようだ。
自分で考えて文章が書ける子どもが求められているのに、塾でプリントをやらされることを学習と思いこみ、しかも受験に本当に必要な学力がリーズナブルに与えられるのではない。進学塾で作文力がつくことはない。かえって子どもと出かける機会や、他のもの、たとえば音楽やダンスやスポーツや絵画表現やプログラミングなどを学ぶ機会を奪われる。塾としては塾の都合で多く通わせたいから、「受験のために習い事を控えましょう」などと平気で指導してくる。日曜は模試で外出できない。勉強より幸福を保証する可能性が高いものを捨てろと言うのである。
まるで京都駅の新幹線南口にいくつもの予備校の看板が立つかのように、郊外の駅の前にはたいてい何種類かの牛丼屋がある。いや外食チェーン産業の店がある。そこで出される牛丼は、店が作っているものではない。炊いたご飯の上に工場から運ばれてきた具を乗せるだけ。それも最近では、外国人従業員が多いと聞く。彼らには調理能力は必要ない。
塾だってチェーン化されればこれと同じ。本部が作ったテキストと指導法を、多くはバイトで雇われた大学生がやらされているだけ。中には「自己表現の場」と勘違いして熱血に教える人もいるだろうが、もし塾がそれに見合う賃金を払えば儲からない。
学校教育が崩壊していく中、確かに基礎学力は家庭がつけるしかない。しかし、これだけ多様化した子どもたちを大人数集めて同一テキストで学ばせることはほぼ不可能である。
私は、カタカムナ音読法の指導と、サイコロ学習法などの指導ができる、あるいはそうした基礎学力の大切さを感じ取る感性を持った私塾の指導者をまず探すべきだと思う。