「作家」であるべきか「編集者」であるべきか | JOKER.松永暢史のブログ

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いや参った参った。参ったと言うのは、事務所移転のことでアタマがいっぱいで、しかも連休で授業が朝からあり、さらに出版原稿の最終加筆をしなければならないのに、事務所から戻ってパソコンを開くと、そこにはさらに3つの生徒作品が送られてきていることである。慌てて読むと、これがどれもまためっちゃ面白い。

これで冬休みに入って送られてきたものだけでも、「学校プチ事件原稿」、「生ナマズ調理原稿」、「ハクビシン解剖原稿」、「スキー合宿事件原稿」、「京都紀行」、「スキー合宿連載小説原稿」、「留学予定先のカナダ人向け日本の教育報告原稿」、「小学生の最後に原稿」とどれも迫力充分である。何度も読み返してしまう。

もうネットもYou-Tubeも見る気がしない。読むために購入した本の山にも手をつけずに、生徒作品の方がオモロイからまずこちらを貪り読んでしまう。そして、これを冊子にしてもっと多くの人に読ませたくなってくる。小中学生たちがこんなにも自由に面白い作文を書くことを他の人とも共有したくなってくる。

カタカムナ音読法と抽象構成作文法を教えると、やがて誰でもホイホイ文章が書けるようになる。それは「事実」であるが、それがどうしてなのかを考えると、それを説明するのはなかなか困難である。何か他の要素を見落としている気がしてくる。そうでなければこれほど多くの生徒が文章を書いている理由の説明がつかない。

第一に思うのは、私が日常多くの文章を書くことを習慣化している人間であると言うことの影響である。書くということの面白さ、不思議さ、快感などをモロに言葉で伝えることができる。またしても作文を書いてきた目の前の生徒に冗談で、

「あのね、僕は作家なの。編集者じゃないの。作家を編集者にするなよ」などと言う。

私は、文章を書いているうちに教育者になってしまった人間である。

その人間を生徒たちの作文群が襲って、「編集者」にしようとしてくる。

いやだ。私はそんな面倒くさい仕事は嫌いだ。

とは言うものの、すると脳裏にこれまで会った多くの編集者たちの顔が浮かんでくる。

編集者たちは、「作家」からの原稿を編集して売り物になる形に仕上げるのがその仕事である。

オモロい人にたくさん会える魅力的な職業であることはわかるが、自分は執筆行為はしない。それでオモロいのかと、『膝栗毛』が売れる前の十返舎一九を想像したりもする。

編集者たちは、同時に何冊もの出版物の制作を抱える。10本なんて言うのはザラだそうだ。

 と!ここで、急に全然別のアイデアが閃いたので、忘れないうちにしばしそちらに行ってメモしてくる。こちらADHDの使いこなしは年季が入っている。

すいません約5分経過。なんとかメモれた。

で、なんの話だったか。そうそう「編集者」。

こうして、自分では文章を書いてそれを編集者に渡す仕事をする一方で、生徒たちからのオモロい作文が押し寄せてくると、どうも書くより読む方がやっぱり楽しいような気がしてくる。いやそんなことはない。書かなくっちゃあ話にならない。現に子どもたちも書きまくりではないか。そして書いたらみんな私に「読め!」と送ってくる。私はついこれを読んで、ワハハの「大爆笑」。こんな楽しいことがあるか。まるでとれたての果実を食うのと同じ。

自分も書くことと、そして人が書いたものも読むこと、これは単純なことのようであるが、とにかく書くと言うことが前提になければ成立しないことである。

ただ読むのではない。自分も書き手でありながら人の書いたものを読むのである。

そうすると、ただ読む段階では得られないなんとも不思議な快感、そして人間同士の繋がりの実感、つまり「友情」のようなものがそこに共鳴・湧出してくるのである。

これは「文化」と読んでも良い現象なのではないか。

作家も編集者も両方楽しい。

言語使用の遊びには、哲学者が把捉しきれない何かがある。

さて下らぬことをグダグダと書いてしまったが、実は生徒たちが作文をよく書くようになったもう一つの多くの理由がある。

それは、タブレットの存在である。おまけにそれがネットに繋がっていることである。

考えてみれば生徒たちの大半は、キーボードで書いているからこそ、その原稿を直接私の元にメールで送ってこられるのである。

私はもうすぐこのブログを書き終わると、すぐにそれをupして、洗濯物を干してゴミを出して授業に出かける。

書いたものをすぐに人に送れること。読んでもらえる状態にできること。

この「環境」は大きい。

するとやはり、私のするべきことは、生徒たちの作品を編集して公開することなのか。