ユダヤ人とカタカムナ | JOKER.松永暢史のブログ

JOKER.松永暢史のブログ

教育相談、執筆・講演依頼は松永暢史公式サイトよりお願いします。

最近近所で子連れの親子を見ると、本当に勝手で僭越だが、なんだかとても気の毒になってしまう。

それは、その子たちが、やがて公教育機関に通い、そこで性格が善良でおとなしければ、自らはものを考えない、言うことをよく聞く習慣を身につけた羊のような人間にされ、そうではなくて個性的で特殊な場合には変に抑圧されて社会適応しづらい大人にされざるを得ないことが多いことが予想されるからである。

もちろん、資金力があって、先進的な明のあると思われる家の子を観察した時にはそうは思わないことだろう。なぜならば彼らには子どもの教育を選択する資金や知恵があると思われるからだ。だから、もしも彼らがそれに失敗したとしても、それは「自業自得」と考えることもできるが、資力のない親の子どもの先行きは本当に危ういと思わざるを得ない。お金がなければこの国の公教育から逃げられない。「哲学」がなければ、この国の教育観念をスルーできない。フリースクールを選択する余裕もない。その親は、自分が充分ではない賃金で過酷な労働を長年させ続けられたことからの脱出を子どもに与えることはできない可能性が高い。

結婚率も下がり、少子化にも歯止めがかからないのは当然のことである。せめて一人は子どもを作り、少ないながら夫婦共稼ぎの資金でなんとか子どもがやりたいことをできる、「奴隷的」ではない、自由で幸福な人間として育ってほしい。そう願う人が多いのも納得できる。

でも、ここで「幸福」と言う言葉で立ち止まりを覚えるが、私は結局幸福とは「自由」であることだと思う。「自由」な時間を持つことだと思う。

さらに踏み込めば、「幸福」とは自分が好きなことをする「自由」な時間を持ち、その時に自分が夢中で時間を忘れるような営為を持つことだと思う。
1900年前後に現れた『シオン賢者の議定書』は空前の偽書とも言われているが、そこにはユダヤ人のゴイム(非ユダヤ人)を支配するための策謀と哲学が綴られていて、かなりの真実説得性がある。例えばその中にこういった内容の文章がある。

 

彼ら事情をさとらせないために、我々はマスコミさらにマス・レジャーを盛んにする。やがて我々の新聞で芸能、スポーツがもてはやされクイズも現れることだろう。

これらの娯楽は、我々と政治闘争しなければならない人民の関心を、すっかり方向転換させてしまう。こうして人間は次第に独立して自ら思索する能力を失い、全て我々の考える通りにしか考えられないようになる。その時表面的には我々と関わりがないものによって、彼らに新しい思想を提供する。

 

その通り、米国でマスメディアを支配経営するのはユダヤ人であり、映画・テレビなどの胴元もユダヤ系資本である。これが偶然かどうかはどうでも良い。肝心なのは人々が、その通りに踊らされていることだ。

マスメデイアによるニュース、スポーツなどの娯楽観戦番組、芸能界情報、クイズ・バラエティ番組。こうしたものは全て、自ら余暇時間に自分のやりたいことを見出せない「羊」=疲れた労働者に与えるべき「目眩し」であり、そのことによって、人民の関心をすっかり方向変換させてしまう。これはつまり考えられなくすること、主体的判断能力を奪うことであり、そこに考えられないからこそ彼らにとって有利な思想を刷り込むと言うのである。

これはまさに現代社会で進行していることを示しており、もしこのようなことに自覚的になった者は、反資本主義的社会主義者になると言うのか。しかし、社会主義者でも、もしも余暇時間にすることが娯楽を享受することがあれば、「非ユダヤ人」として同様の目で見られることになるから同じである。

アフリカ大陸西岸から、アメリカ大陸に農業奴隷として運ばれた人たちは、そこで有無を言わさずに強制的労働に従事させられた。

農業労働は日が落ちれば終わる。暗ければ何もできない。アフリカ人たちは、貧しいながら夕食を取る前に、それができる前の時間に、焚き火の周りで、何かしらを手に取ってリズムを刻み歌い踊ったことだろう。それは昼間の労働が厳しければ厳しいほど簡単に「トランス状態」を起こしたことだろう。こうして、後々白人が不要にした楽器なども手に入れて「ジャズ」が起こったと思われる。

注意してほしい。アフリカ人奴隷は、「労働者」であるのだから、命はほぼ保障されるが行動の自由はない。しかし、自らの余暇時間にジャズを行っている瞬間は、明らかに完全に「自由」である。自由に自己表現してしかもその時間を他者と共有している。

世界支配を目論む者が何をしようが、個人が個人の自由に持ち時間を与えられて、そこで自由に自己表現すれば、それで「自由」を獲得しているのである。つまり、このことに自覚的になれば、『シオン議定書』の呪縛から逃れることに成功する。自ら主体的判断を失わないで済む。

この観点は重要である。

ユダヤ人だって、全ての時間が自由なわけではない。しかし、その余暇時間に、研究や、創作や、技術鍛錬や、心情表現をすれば「自由」である。優れたユダヤ人を作ることができる。

親子連れを見て、なぜ気の毒に思えるか。それはおそらくその子どもの耳にカタカムナ音が届くことがなく、同時に余暇時間の過ごし方を親が教えることができないと想像するからである。賢くなるきっかけの音が届かないと思われるからである。

さて一方、ユダヤ人の多くがなぜ知的に優れるか。

それは、幼時において、親が超古代から伝わるヘブライ語の聖書を正しい音で音読するのを耳にするからではないのか。

だとしたら、もはや日常生活環境に、和歌の詠いも、漢文素読の音も、祭りの香具師の声なども失った我々は、それに勝る最強の言語発達ツールのカタカムナの音を日本人幼児の耳に届けるべきではないのか。

今日は久しぶりで本格的に「冗談」で書いた。