状況を的確に表現する能力と物事を抽象化する能力はどこか繋がっていると思う。
これが言語を用いる「哲学」の繰り返していることである。
その意味では、言語の可能性よりもデータの解析の方が正しいと言う社会学立場とは一応一線異なる。
「事実」をいかに表現するかと言うことには、その表現する言葉がなんであるのかの「規定」が必要である。
これは「トートロジー」ではない。
なんとなれば、「判断」と言うものは、よく考えてみると、最初も最後も実は究極「直感」を前提に決断されるものであることが自覚されるからである。そしてそこで重要なのは、その「伝達」が言語以外の、あるいは言語以前の感覚媒体によってもたらされる可能性があるという「認識」である。
昆虫を観察すればわかる。彼らは「直感」によって行動するのであり、「知識」や「分別」によって行動するのではない。ひょっとすると彼らの多くには「経験」すらもないかもしれない。彼らは「考える」と言うことをしないのだ。既成の情報の処理を行わないのだ。ただただ触発的に直感的に生きることで生命を全うできているのである。もちろん生物界では「犠牲者」を前提にする「営み」が行われる。もちろん「老荘思想」はこの認識に基づいている。「自然」は自然のままなのである。
目の前を蚊が飛ぶのでこれを叩き潰す。
その「瞬間」には、実際いったい何が起こっているのであろうか。
思いも知らず、予想もすることなく、瞬間的に体全体に命がなくなる可能性―それは全ての生命体において常にある「原爆的可能性」であるーがその時点でこるべきはずの「認識」は何か。
人々が実際の経験を経ずにそこまで「空想力」を拡大することはあるまい。
もしそうしたら、「宗教」は存在の意味を失う。
「ありえない」と思うことは、すでに「ありうること」なのである。
ゆえに、「神」の存在可否は言語では問えない。
「直感」でしかそれは表現できない。
しかし、「現象」がある以上、「潜象」があると言うのは当たり前の認識である。
全ては「認識」に先行する「意識」に起因する。
「意識」があるかないか?
それは他ならぬ『意識』による。
そしてその『意識』は直感の存在の認識によってこそもたらされるものなのである。
「直感」を待ち受ける者―それは好奇心の限界の果てに顕現する「光」を自己判断する者たちであろう。
以上、「冗談」の一種と受け止めてくだされば「幸い」である。