「データ」とは過去の結果であり、未来の「イメージ」ではない。
結果的にこうなっていると説明することと、その結果どうなっていくのが望ましいのかという議論は根本のところで食い違いを内包する。
ここにおいてこそ、解析学的思考はその限界性を吐露する。
もし「データ」を元に「未来」の構築が可能なら、そこにはデータの結果の抽象化と、そこに新しい視点やアイデアを加えることが必要不可欠になるはずである。「データ」だけでは何物にもならない。
しかし、既成の「データ外」を捉えて分析するのも「データ」解析の仕事でもあるはずである。
そもそも「データ」で何とかなるなら、教育の今の「現状」はなかったはずのことである。避けられた可能性が高いことである。
「データ」は結果に過ぎない。
「データ」だけでは、建設的な議論はできない。
でも、あらかじめ「データ」を握ったものが有利になるのは、あたかもAI将棋と同じことである。
「データ」は現実の認識より現実の「言い訳」に使われることが多い。
教育のような、多様で混沌的で入力事項が多すぎる対象を、「データ」で測ろうとすれば、そこにはやけに恣意的でなければ、意味のある形の答えを得ることができないことが起こってしまうことは「必然」である。しかし、彼らは「結果」としての「データ」を相手にしているのであって、直感的に体験把捉される現実目の前の可変的な現象に認識対応しているのではない。そして、「データ」の価値の判断に、自らの「哲学性」(価値判断)が潜むことに自覚的であることは少ない。少なくともそのことができるだけ知られないように隠す。「無視」する。
だが、そこに「誠実性」がなければ、「欺瞞」になるという論理的宿命がある。ゆえに彼らは、「精神性」のためよりも「愚民容認性哲学」に基づいて、「妥協的」に活動する者たちなのである。
何という、わかりやすいすっきりした光景であろうか。学者は、自分の「無能」を隠蔽しても、知力に劣る者をとりあえずはケムに巻くことができると言う確信的「差別」意識に基づいて行動するのだ。ここにやはり、「高学歴」メディアとの「連携」が垣間見られる。
しかし、そのような判断をする「学者」の言うことを、単に知的な分析データを把捉しているらしいからと言って、鵜呑みどころか「参考」にすることができようか。
学者は「研究者」であり、それは社会学的には過去の事例を元にしての仕事がおおよそである。
自らの研究結果を元に、これからの未来展望予測を述べる学者は、我が国では稀である。
こうした人は、マックス・ウェーバーの言う「精神のない専門家であることを自覚せず、かえってその地位に自惚れる人たち」もしくはその自覚のない厚顔無恥の人たちではないかと私には思われる。
知識人と言われる人に、教育についてまともな分析と発言をする者がいない。
それは言わないと言うより、言うその能力がないらしい。
そして、それらインチキ高学歴知識人を、無前提に尊崇奉らざるを得ない一般大衆は、その「差別」の深まりゆくことを自覚しない既成の「一般大衆」への「合流」を選択し、期せずして、無意味な人生時間を過ごすことに無自覚的になるのである。
この「事実」を前にして、我々がするべき究極のことは何か。
それは彼らをくすぐって眠りから起こそうとすること。
つまり、「冗談」を通じさせることに他ならない。
自らの行為を嗤わせることに他ならないと思ったりするが、わかる人にはわかるまいか、なんちゃってこのブログは「冗談」で書かれているのである。
寝小便 したとおもたら ゆめのなか
この悔いを知らぬものは「幸福」である。