5日夕にリベラルアーツ上級があるが、『老子』を読み終わって、今回からは8世紀ヒンズーの大哲学者シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(千の詩節からなる教説)を会読し始めようと思うが、他に、ルソーの『社会契約論』、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も同時進行で読む予定である。
すでにそのテキストはナワ・プラサード書店から取り寄せたが、ついでに『老子』を読んでいてどうも気になっていたヴィルヘルム&ユング著の『黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)』(人文書院刊)を購入して読み始めた。この本は若い時に読んで大変参考になった書の一つであるが、道教の瞑想術について書かれてあって実に興味深い。これも是非生徒に紹介したいと思う。この辺りでフロイトやユング、あるいはレヴィ・ストロース、あるいは柳田國男といった、近代の人間存在を科学的に解き明かそうとした人たちの活動があったことを伝えることも肝要だと考える。
V-netリベラルアーツは、海外の宗教経典的書物を会読し、そこにそれを超えたグローバルな価値判断を打ち立てようとする試みである。『旧約聖書』、『新約聖書』、『論語』、『淮南子』、『老子』、そして仏典やバガバッド・ギーターなどを読み解けば、そこに共通して現れる教えや価値観が現れる。それをごく簡単に抽象化すると、「善く生きなさい。そうしてそこに得た自らの力を他者のために使いなさい」ということになる。
これはよく考えてみれば当たり前の教えである。
周囲の人に害を与えず、かえって自己の生み出した良いものを与える。
いかなる「聖者」、「天才」でも、瞑想以外にこれ以上のことはできない。
このことがわかると、哲学的なことはまだ少しともかく、宗教的なことは一切考える必要はなくなる。
「真理」はすでに、先達体験的に「固定」されている。
それはよく生きること。
その言葉に尽きる。
特定の「神」があるとは、その団体の勝手な思い込みである。
その団体独自の特定の「神」を名乗った瞬間、その団体は矛盾を孕むことになる。
そうではなくて、それに先行して、人間的社会的「倫理」と呼べるものがある。
それは自分なりによく生きて、できたらそれを他者のために役立てようとすること。
このことに尽きてしまう。
しかし、その認識に至らんとするからこそ「宗教」があるとも言える。
ゆえに宗教が伝えるものは、その認識に至るための一種の「技術」であるとも抽象化されよう。
祈るーそこにはただ祈るだけではなくアタマやカラダの使い方がある。
これを我が国の自然環境で行うと、どうも「神道」的な思惟行動になる。
自然全体が「カミ」であり、その背後にさらに本質的な「神」がある。
しかしその「神」を感受するためには、深淵な「好奇心」に基づく深い「感受性」が必要になる。
ブラフマン(宇宙真理)とアートマン(自我意識)の一体化を繰り返し主張するシャンカラの教説を、老荘思想会読直後に、仏教瞑想術をさらに中華的に発展させた『黄金の華の秘密』を併せ読むことは、さらに限りなく「洗脳」を客観化しようとするリベラルアーツの方向性を進化させることになると思う。
ルソーは近代精神を知るために必須の思想家であり、同時にゲーテやヘーゲルの業績をも踏まえたマックス・ウェーバーといった近代の天才社会学者の記述に目を通すことは、10代少年たちにとって目から鱗の意義深いことになると思う。これでこの方面、フロイトやユングに繋ぎ、社会の見方のよりリベラルアーツ的見方の仕方が実践できれば幸いである。年齢は問わない。インド・ヒンズー教思想を捉えたいと思う人は、どなたでも岩波文庫を手に参加してくださって結構である。また、中高生で、学校などの授業が物足りなく思ってイライラする者も是非一度参加してみてほしい。