大学進学共通テストについて−5 | JOKER.松永暢史のブログ

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どうも本当に思うことを書くと嫌がられるようだ。

それは実は誰もあまり認識したくないことだから。

だから、個人のブログとして、勝手に言いたいことを「排泄」するのが本線と思い直してこれを書く。

なんちゃって。

未来社会を担う子どもたちを救いたい。

でも自分はほとんど「無力」である。

自分を訪ねてくる子どもしか救えない。

自分と関係を持つ子どもしか救えない。

自分ができることには「限界」がある。

だから多くの人の「協力」が必要になる。

全ての子どものアタマのハタラキがよくなる教育を優先しようぜ。

それには音読とサイコロと自然体験焚き火だ。

自然のエキスを吸い込んで、数値をアタマの中でイメージ計算し、音読で日本語の了解能力、表限能力を高めてしまうのだ。

そうすれば、スイスイ自分の思うままにダマされずに進んでいける。

マークシート機械採点のセンター試験のための勉強をすると、本質的な「思考能力」を奪われ、着想能力が捨象されることは既に書いた。

しかし、これを誰よりも早く、将来「無意味化」するものとして見抜いた人たちがいた。

それは、1990年に湘南の山の茶畑の中にSFCの創設を思い立った連中である。

加藤寛か、その周辺にいた誰か。詳しくはわからないが、センター試験が「亡国」に繋がることを見抜いた人たちがそこにいた。そのことは、慶応がセンター試験利用を長年拒み、逆に他の大学に先駆けて独自の小論文試験を拡大していったことにも現れていた。

高大接続システム改革プランに大きく関わったと思われる鈴木寛は、SFCと東大大学院を束ねる組織の教授を兼任した。

そこで確かに「何か」が動いた。

「教育」についての「観点」が完全に変わった。

センター試験を受けて東大や国立大を目指すことが「無意味化」した。

センター試験は、「教育」の名において、子どもたちのアタマを悪くさせる「政策」であることが明らかになった。

しかし、これは「既得権益」との戦いをも意味していた。

天下り先、マーク模試でもうける受験産業、問題集解答書で潤う出版業界、そしてその事務局で働く人たち。

そこにはセンター試験があるからこそ「ご飯」が食べられている人たちがいた。

センター試験こそ、全国教育統一政策の要である。

するとそこには「最終判断」が必要になる。

それは「愚民化が正しい」との判断である。

「マス」としての国民の多数が愚かであることは最も明らか、と言う「電通」的とも言える「認識」を持つに至るのである。

これは社会に明らかな「階層」が存在することを意味するのか、それは文字通り、「人民」にはわからないことだろう。

1991年に内閣総理大臣になった宮澤喜一が、初めてハチマキを締めて、総理になることを決定する自民党総裁選出馬に及んで、メデイアの「軽井沢の別荘に篭って何をしていたのか?」という問いに対して、「『老子』を読んでいた」と答えたのは、あまりに正直すぎる発言だったと思うが、大衆が「愚」であることを認識することと、それをそのままにすることと、それを「賢」に変えようとすることは大きく異なる視点だと思わざるを得ない。これは「倫理」に関する問題に繋がる事柄でもある。著しく高い言語能力を持っていた宮沢は東大法学部卒以外を「カス」だと思っていた。

どうして世の知識人と言われる人たちは、マークシート選択肢試験のための勉強が子どものアタマに悪いからやめた方が良いと提言しないのか。その答えは、その人たちも選択肢思考に陥らさせられていることに自覚的になれないからではないのか。実は「直感力」がないことを露呈することを恐れるからではないのか。直感力を喪失した知識人ほど惨めなものはない。彼らは、マックス・ウェーバーの言うところの「精神のない専門家」、もしくは「憑依する隠遁者」に他ならないことになろう。

直感力のない知識人。

これほどバカなものはない。

このところ書き忘れていたが、このブログは「冗談」で書かれていることになっておる。