振り返れば、組織に属さない個人教授として半世紀近くもこの「バイト」で生活し続けることができたことは、なかなか「幸運」なことだったと思う。他にどこかにいらっしゃるのかもしれないが、これまで同様な人になかなか出逢わない。
個人教授は、子どもに教えるという面では同じに見えるが、学校の教員とは全然別の職種だと思う。塾や予備校の講師とも違う。
個人教授は、目の前の一生徒と向かい合って、その生徒の学習を補佐しつつ、その生徒の状態を良くする者でなければならない。そしてここでは、子どもが伸長するようにならない理由をその子どものせいにすることが許されない。
だが、全ての建築物と同様に、学習にはその「土台」が必要である。土台がなければ、その上に何かを構築することもできなければ、構築してもすぐに崩れて忘れられてしまう。
今思うと、個人教授で生き残ろうとする者にとって、その「土台」がなんであるかを探求することこそが、その仕事の「土台」になることなのであった。
テストで点を取らせるためには、テキストの理解が欠かせない。理解しないで闇雲に覚えようとするのは最終的に効率が悪いし、またアタマに悪い。先の学習につながらない。もちろん必要なものは覚えなければならない。しかしそれはただ覚えようとするだけではなく、それを使いこなせるように習得することが大切である。
選択肢問題で正答するには、その選択肢文の意味がきちんと読み取れなければならない。
数学の文章題で解答するには、その設問文の意味を読み取る力がなければならない。
この国の学習は、授業、テキスト、試験、面接と皆全て日本語で行われる。それゆえに、この国で勉強ができるとは日本語の了解能力が高いということに他ならないことになる。考えてみれば、これは実は当たり前である。言語能力が学習能力を左右するのである。そしてその言語能力は明らかに後天的なものである。
では、だとすれば、子どものアタマのハタラキをヨくする個人教授の仕事とはなんであるかということになると、それはまずその子どもの日本語力を高めるということになるのである。
日本語力を高めれば全ての学習を伸ばすことができる。入試にも絶対に勝つ。
―もしその確実なメソッドが見つかれば、それで個人教授として当分食べていくことができるかもしれない。
30歳の自分はこう考えた。
そしてそれを探り始めた。
子どもの国語力を伸ばすとはどう言うことなのか?
なんで、言語能力が高い人とそうではない人が出るのか。
やがて『徒然草』を用いての一音一音読みに効果があることがわかった。
そして、今回新刊書の『カタカムナ音読法』で書いた通り、さらに偶然カタカムナに出逢い、そのウタヒ読みが日本語音読の最強メソッドであることを発見するのである。
大袈裟に言うと、かえって怪しむ人が出てしまうかもしれないが、スピリチュアリズムと関係なく、この音を知る全ての人は、自分の日本語が変化更新されることに気づかされることだろう。
これは、アタマがよくなりたい、未来適応型の言語能力を身につけたいと思う全ての人が実践するべきことなのである。
何よりもまず子どもに伝えたい音―それはカタカムナの音である。
どうか早くできるだけ多くの人がこのことに気づいて子どもたちのアタマに届くように協力してくれるように切にお願いする。