釣人哲学者との対話 | JOKER.松永暢史のブログ

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ダマすことは楽しいことか?

―魚を獲る時のことを想えば、それは最高に楽しいことである。

ダマすことは正しいことか?

―魚を獲る時のことを想えば、それは生きるためであり、そこに「正邪」の判断はない。

では、ダマされることは楽しいことか?

―魚かい?そりゃ餌を取られりゃ悔しいさ。

魚ではなく人にダマされることは楽しいか?

―人かい?そりゃ状況によって異なるね。楽しいせいでついうっかりダマされるっていうのもあるしね。そのせいで後で恨む気がなくなるってーのもあるかもしれないしな。ともあれダマされている瞬間はわからないからな。

楽しければダマされてもかまわないということか?

―そりゃ「損失額」にもよるでしょ。人にダマされるっていうのはお金を取られるってーことなのだから。

とどのつまり、ダマすってことは、完全には悪いことではないということか?

―仕方がないじゃん。みんな生きていくために少しずつダマすことを許容し合いながら生きているのだから。完全に人をダマさないようして生きたら聖者だよ

そうか少しずつか。では、ダマすことをする場合、それはおそらく言葉を用いてすることだろうから、ダマす方はダマされる方よりややアタマが良い、もしくは言語的に優れるということなのか。

―そりゃそうだが、ただ言語的に優れているだけではなく、相手が信ぜざるを得ないムードを出す力が大切だよね。それは多分ある感受性に関係がある。

ムード!それって、男と女のことについてなのか?

―いやそうとは限らない。しかし、ダマすことにおいて最も大切なのがムードであることはあらゆる儀式や宗教施設が物語っていると思う。

ムードに弱い人がダマされる!それってどんな人?

―その代表は子どもだろう。でも大人だってイチコロさ。人という動物はムードに弱い。というより、自分がムードに酔ったことに自覚的でない。そして、ムードに酔いたいという潜在願望がある。だからこそ、ダマされる。つまり、ダマされるとは、ムードに酔ったことに気づかないことなのだ。そして、その「ムード」は言語化されない。「えも言われぬ」「言葉にならない」などと表現される。「モード」とか誤魔化される。偶然潮の流れが、つまり「ムード」がやや変わり、その「ムード」に合わせてピートたちが集まってくると、そのピートたちが群れているところを、巡回中の大物君たちが気づいて襲い掛かり始める、これまたそうした「ムード」が起こる。いや、さかなクンたちは夢中である。みんなムードに酔いしれる。遅れて集まって来るものや、やや遠くまで巡回しながら参加するものもいる。そこを絶妙のタイミングで狙う。「ムード」に酔って警戒を忘れた魚にルアーを投げつける。これは魚を狙っていることなのか、「ムード」を狙っていることなのか、それとも「WAVE」を追確認していることなのか。ダマすなんていうダサい言葉はそこにはない。そこにある対象は実は自分自身なのだから。そして、その「ムード」に酔っているのも自分なのだから。ガツンとヒットした瞬間、そこにあるのは自己の判断行動の正しさの確信と称賛あるのみ。

 

なぜだか、こんな人間を「ダマす」ことは不可能だと感じた。