モノを売るにはモノがあることを、それを欲しがりそうな人に伝える必要性がある。これを「マーケティング」と言うのかもしれないが、広く告知してモノを売ること。本来「店」とは「見せ」の謂いだった。
生活必需品ではないモノの存在の「告知」には、新聞を始めとしてラジオ、テレビそしてネットなどの「媒体」=メディアの利用が必要であろう。
しかし、メディアは単なる「場所」に過ぎないので、そこでどのような「パフォーマンス」を行うかが肝要になるだろう。
それは、とどのつまり、できるだけ送り手側が思う通りに受け手側が受け入れるようにすることである。
これはルアーで魚を釣ることを例に考えるとわかりやすい。
いかにも魚が食いつきそうな仕掛けを作って、それを絶妙のタイミングで目の前に落とす。
しかし「魚」といっても色々ある。
滅多に釣れない「大物」を釣ろうとすることと、「小物」を網などで大量に獲ろうとすることは違う。
ともあれ、食いつかない「魚」を相手にしても仕方がない。
何も考えないか、欲に負けて食いつく魚を狙うのが常套である。
漁師はなぜ魚を獲れるのか、それは魚よりアタマが良いからである。
魚よりアタマが良いとは、魚の習性を知悉しているということである。
縄文の狩猟採集から連綿とつながるこの「事実」。
そこにはダマされる側が圧倒的に愚か、つまり、「バカ」であるから仕方がないと言う「判断基準」がある。
この件については、切羽詰まったヤクザも余裕のある投資家も事情は同じ。
自分より「バカ」がいるからその存在が成立することに変わりはない。
ところで、獲った魚は金に変えることはできようが、魚自体から金を取ることはできない。だが、ちょいとその気になって見渡すと、世の中には金を取ることができる「魚」がウヨウヨ泳いでいるのである。
その「大衆」は、「シオンの議定書」が示す通り、衣食住が満たされると、あとは「暇潰し」=娯楽を求めるものであることは、古代ローマの都市反乱の「パンと見せ物」を要求する下級市民同様、歴史上覆ったことはない。しかし、その「娯楽」の意味は加速され、利益追求のための「ビジネス」となっている。
テニス、サッカーの国際スポーツ大会だって、有名選手の記念式典だって、元首相の葬儀だって、場合によっては選挙まで、よくよく考えれば皆暇つぶしの「娯楽」である。これは大衆の多くが自ら選択するべき対象を持たないことを前提にする「ビジネス」である。そしてそこに広告がつく。実は金を出しているのはこの広告主たちである。「告知」をすることによって「モノ」を売ろうとする人たちである。
各国が名乗りを上げるオリンピック開催権をものにする。
コロナ下でもオリンピックを敢行する。
自国の大衆のコントロールだけではなく、国際社会における駆け引きでもその能力を発揮する。
他に卓越した素晴らしい「能力」としか言いようがない。
だからこそ願う。オリンピックは文部科学省が「主催」だった。だから、「オリンピック成功」に引き続き、「教育改革」についても彼らに投げて担当させることによって、これに「成功」させて「罪滅ぼし」をさせることにするのは如何か。
生徒たちが楽しくて楽しくてたまらなくて、なおかつ個々の能力が伸びる教育環境設定のアイデア。
経験豊富な彼らなら、アタマもシステムもギッチギチに凝り固まった官僚には無理でも、日本の未来を支える人材を生み出す教育改革ができるはずである。
でもダメか。彼らのしていることは国民の多くが「バカ」であることが「前提」なのであるから。
「バカ」を楽しませて、ついでに企業が売りたいモノを買わせる。
これには「バカ」の存在が前提になる。
だから、もし国民が賢くなれば、その「足元」が崩れることになりかねない。
「バカは死ななきゃ治らない」ではない。「バカは死ぬまで治らない」―この「認識」が彼らを支える。
「バカ」であっても死んでしまえば「商売」にならない。
こうして、日本の大衆の状況がよくわかってしまっている彼らメディアや広告産業に勤める者たちが、自分の子弟を、この国の公教育を避けて私立一貫校や海外の学校に入れているのは自明のことである。
このお仲間の「新聞」に従事する者も当然こうしたことは紙面に載せない。
善哉善也。誠にここには「矛盾」がない。「冗談」がない。
わからない者には教えない。
彼らにとって、そうすることは、論理的に正しいことなのである。
「倫理的」ではないが。
これはやめられない。
わかちゃないからやめられない。
逆に「正着」が見えて、面白可笑しい。
―なーに言ってんだよ、そこのオマエ。「起立」と言われたら立つんだよ。「礼」と言われたらアタマを下げよ。「着席」と言われたら次の指示を待って気をつけろ。考えるんじゃない。言われた通りにするのが幸せなのだ。信じよ、信じるものは救われる・・・
いつまで続くことか。
「バカ」をバカにするうちに自分も「バカ」だったことになる。
これに気がつかない者は幸せ者だ。