「コード」が存在することについて | JOKER.松永暢史のブログ

JOKER.松永暢史のブログ

教育相談、執筆・講演依頼は松永暢史公式サイトよりお願いします。

どうも自分の発言が公共のメディアの「コード」に触れるらしいということは、逆にさまざまなことを考えさせる。

東京新聞8月18日付の朝刊の24面の左上に、「公立小中 教員疲弊」(勤務中休憩ゼロ半数、デジタル化業務拡大、精神疾患の休職5000人)と訴える記事があった。そこでは教員一人当たりの児童数が2010年の15、7人から2020年の14、2人と約1割減ったが、負担は逆に増えているとある。しかしここでは児童数が減っていることについての言及はない。あくまで文科省発表のデータをやや大げさにグラフ化するだけ。先生の仕事が大変であることを夏休み明け前に報道しようとすること、つまり読者対象の部分に「教師」を意識していると言うこと。

この記事は狭いところに無理に多くの情報を押し込めようとした困難が伺えるが、全体の要旨は「児童数は減っても、デジタル化対応などの仕事が増えて、精神疾患も多く、先生は大変だ」と言うこと。なぜかコロナの影響や混乱や負担増があったことには言及しない。ちなみにこの「特集記事」には記者名がない。

これはいったいなんなのであろうか?なんのための記事なのであろうか。今学校で起こっている本当の問題を「隠滅」するための目眩しのためか。どうして教師も生徒もこんなにも疲弊するのか、どうして精神疾患になるのか退職するのか、どうして不登校になるのか。それを明らかにしようとするのがここでの報道の役割だと思うが、そんなことは新聞記者には書けない。「コード」に引っかかる。わかることは、この教師たちの苦しみの前で嘆き悲しみ、抵抗し、登校拒否を選択し、フリースクール、インタースクール、そして海外の学校を志向する子どもたちの親たちの実際的動向、つまり多くの公立小中教育が多くの親に見切られているという現実などはできるだけ触れたくないと言う「上部の意向」が働くのだろうと言うことである。

メディアは子どもをバカにしすぎていると思う。子どもはメディア情報にお金を払わないからお客じゃない?子どものことを取り上げるのは子どものためじゃあない。それはそれを読むその子どもの親のため。「お客」のため。

束の間の休息を終えて、子どもたちにとっては「地獄」の2学期が始まろうとしている。そこでは今の自分にふさわしいとは限らない学習内容を拒否することが許されず、多くはアタマが良いとも技術的に優れているとも思えない鈍くてつまらない大人の言うことを黙って聞かなければならない毎日が待っている。そして羊のように、従順さと順調な草喰み成長を求められる。いったいこれはなんのためか。これが嫌で逃げ出す子どもと親の気持ちがわからないのか。

いや実は、「コード」がある以上、メディアの側は分かっているのである。彼らがそんな「バカ」のわけはない。それは彼らを舐めすぎている。彼らは、文科省や大学機関同様、ある意味「賢い」人たちの集団である。そのことを忘れてはならない。

日本の現状の公教育を批判すること、それは彼らの「利益」に反することが明らかなので、もしそんなことをすれば「バカ」なことになるので、これを報道するワケにはイカないと言う「カシコイ」判断に至るのである。

世の中は先に気づく人と後から気づく人がいる。

先に気づいた人たちの多くは、多分に後から気づく人たちのおかげで「利益」を得ることになるから、後から気づくことがそんなには早くならないように願うのは、この「資本主義」の世界では、大手広告代理店的に「当然」のことになる。「News」と言うのは「新しい知らせ」と言う意味だが、そこにはすでに多重の意味合いがあることに自覚的になる人は、その「対象」にならない。

言うまでもなく、このブログが「冗談」で書かれていることを「隠蔽」するつもりはない。