安倍元首相銃撃について | JOKER.松永暢史のブログ

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やはり、スーパームーンのある時候は危険である。精神的限界を超える人が出る。

何かを実行するには、損得への思い巡らしのほか、政治的信条、宗教的信仰などの精神エネルギー、あるいは対象に対する特別の思い込みや自己願望の実現欲求などが必要であり、これを世間では「動機」と言う。しかし、これらのどれにも当てはまらない、つまり理解できない原因に「狂気」がある。

「狂気」は精神疾患であるが、その「狂気」は、どのようにして発現するのか。例えば熱帯雨林原生林や、自然環境に包まれたところで生活する社会には「狂気」がない。「狂気」は現代社会が生み出す病である。

現代社会でなんとなく生きていると、だんだん「狂気」に近づいてくる。多くの人は、これを意識的にあるいは無意識的に「気分転換」することで避ける。ストレスの発散である。「自己開放」である。そのまま行けば「狂って」しまうので、「狂気」に近いけれども「狂気」ではないことを行うことにより「狂気」を発散する。

「自己開放」とは何らかの「自己表現」、例えば歌うことや踊ることなどで得られることが普通である。ヨーガや瞑想に求められるのもある意味でこれであろう。

「自己表現」には、他者に認められたいと言う願望と自らの達成感が同時存在する。

つまり、何かをしなければ自己表現感が得られない。

一番単純なのは言語的表明であるが、ご存知の通り、この国の学校教育では、「指示に従え」、「余計なことを考えるな」、「意見を言うな」、あまつさえ、「出る釘は打たれる」など訳のわからないことを教えられる始末。記述試験導入を図った高大接続システム改革も失敗に終わり、一般言語水準がグッと低下し、学校教育で日本人を自分で考えて自分でものを言うようにするように教育することは「不可能」に近いと言うことになった。

大人しく公立教育を受け、しかもそこで「優秀」な成績を収めてその「上」に抜けなければ、そこに待つのは、時間を厳守して、単純作業の繰り返しを厭わず、「上」からの指示を守るだけの職業である。「上」も上なりに面倒臭い仕事に耐えているのであろうが。

良い。それでも良い。週末の自分の時間には、趣味やスポーツや小旅行などで楽しく自己開放して、またあくる週からの労働に備える。それができれば何とかやっていける。ギャンブルや娯楽も用意されている。健全な生活をする人は、概ねそのようにしているのが普通だろう。

でもそうではない人たちもいる。何とか大人しく言うことを聞いて高校を卒業して社会に出て働き始める。それだけでも大学などに進学できる人に比べれば「不運」かもしれないが、そこで出会うのは末端の単純労働作業であることが多い。しかも自分から辞めない限り毎日それは永遠に続く。しかも充分な収入を得られない。ゆえに休みの日に自分のやりたいことをする余裕がない。

いや、現実はもっと酷いのではないか。大学生の大半が、自分の意見を文章化できない状態であると思われる現在、それ「以下」の人たちは、読み書きもまともにできなければ、言葉によるやりとりも不全のままだろう。12年間も大人しく我慢して「教育」を受けたのにである。

また、学校教育で自己表現のやり方を習えただろうか。学年が上がるほど生徒たちは自己意見を言うのを控え、多くはそれを持たなくなる。音楽や美術の教育が自己表現につながっているだろうか?リコーダーなんて吹いている大人は世にごくわずか。だいいち宿題や提出物が多くて充分に寝る暇がないくらいの学校生活。まともな趣味に没入できる子どもは少ない。

こうして、充分な学力はもちろん、本来まともな人間が持ち合わすせるべき、自己表現力、自己開放能力、ひいては自己の存在確認手段も身につけることができないまま放置された人たちは、社会と言うものやその社会内で存在する自己の「居場所」がわからなくなるはずである。そしてある時そこに強い自己確認欲求が内発してくる。そしてそれは「倫理」判断を超える。つまり、「狂気」に至る。そしてそれを止める「トリガー」―が周囲にない。

秋葉原、寝屋川、新幹線、京王線、小田急線などでの殺傷事件の背後には、学校教育で脱落して自己表現手段を持たないまま成人し、単純労働に嫌気がさして「発狂」した者たちと言う共通点がある。

そこには、政治的な「犯行声明」はない。ただむしゃくしゃしていることに耐えられず、もうどうなっても良いから何かしようと言う「マグマの暴発」である。そこにはもう自己表現の無意識的根底的欲求だけがあり、刻々と迫る精神的な脅迫に耐えられない、周囲のことが「見えない」状態に至る。

なぜ元首相が殺害されなければならないのか、銃社会のアメリカでここのところ大統領などが暗殺されないのに、どうして日本ではこれを阻止できなかったのか。

選挙投票日目前で元首相が暗殺されれば、当然与党に有利になるから、敵対思想があるならこれはナンセンスである。政治的な声明などは全くない。ふと、オーム事件の村井秀夫刺殺を思い浮かべるが、これも多分ないであろう。

出る釘は打たれると習ったはずの教育弱者が、「教育」に生き残った強者を撃つ。

それが犯人にとって最高の自己表現。

何ともやりきれない。

ここは21世紀のどこの国だと言いたい。