またしても怒涛の金土日が過ぎた。
1日午前の「音読指導者養成講座」は、相変わらずの参加者の質的レベルと自己練習の結果が光った。
さらにすでに「応用的段階」を試みる人も出て心強い。
午後からは、七田式浅草校のお招きで、これまた音読講演。ここでも参加者レベルが高いのに驚かされる。これは意識の高い人たちがこの音読に集まるということなのか。その後会食して帰宅と思ったが、運転手役の賛意を得て、首都高降りた所で高井戸温泉に寄る。相変わらず入浴者に若い人が多い。ともあれ、できるだけ陽に当たらないようにする作戦は貫徹された。
2日は午前より授業で、夜は「リベラルアーツ上級」で『老子』(岩波文庫)を読む。
自転車2往復、車1回。
一気に19章まで読んだが、これが大変盛り上がる。
「これまでのテキストの中で、これが一番面白い!」の声も出る。
『論語』、『エピクロス』、『スッタニパータ』、『韓非子』、そして『淮南子』と読んできた者たちからすると、その相互の関係性、共通性が比較されて面白いことになる。
『老子』に書かれていることには、極めてブッダ的なところがある。
『韓非子』の政治思想には、『老子』をベースにしたものがある。
「道」が存在することが肯定されれば、「神」は副次的存在である。
かくと見えないもの、聴こえないもの、言葉で表せないものがある。
大道廃 有仁義。智慧出 有大偽。(大道廃れて仁義あり。智慧いでて大偽あり=『老子』第18章)
こうした反語的アフォリズムは、歴代中国人民同様、参加者に不思議な「快感」を与えるようだ。
何かを気づかせる「作用」がある。
本質的人間倫理が失われたところに、新しい「ルール」の設定が求められる。
それは本当に必要なことなのか。
自然のままにすることの方がむしろ「正しい」のではないか。
老子は、孔子の持つ「分別」を鼻で笑い飛ばす。
「分別濫りに起こりて、得失止むことなし」とは仏教の言葉であるが、『老子』は「分別」を元にする儒教を「不自然」であるとして嘲笑する。
するとそこには、「直感」を前提にするものがあるはずであり、それはおそらく「瞑想」=「覚醒」を含む何かであったであろう。
『老子』と『ブッダ』に共通するもの、それは瞑想のテクニックだったのではないか。だとすると、ヘレニズム下のエピクロスも同様だったということになる。
そして、プラトンの記述によれば、ソクラテスは「シンポジオン」の前に木陰に入って瞑想をする人物であることがはっきりしている。
いうまでもなく、キリストは、年中瞑想して「天なる父」と会話している人である。アッラームハンマッドしかり。
人間は言葉を操るが、猿にはそれができない。
ということは、言葉を操ることよりさらに逆説的根源的な瞑想の自覚を、言葉を持たない猿は持てないのかもしれない。
サルには「瞑想」の自覚がない。
実は「瞑想」は、言葉があるゆえにある。言葉があるがゆえに、言葉を捨象するところに「顕現」するものである。
「空」とはよく言ったものよ。
で、今日は朝9時より授業。何が起こったのか、小学女子生徒の急激な能力発達に驚かされる。
やや空いて、午後は暑さ防止のため、ためらわずに車で出る。
高3に鴎外『舞姫』通読授業。
小5に音読作文暗算指導。
帰宅してこれを書いた。
結局今のところ雨が降らないことがやや恨めしい。
天よ、思いのままに雨を降らせよ!