人類史上最大の戦争犯罪―それが広島長崎への原爆投下であることは言うまでもあるまい。
一度の戦争行為で、これほど多くの市民の命が奪われた例は、歴史上かつてない。
「科学」の力で一度に数万人の命を瞬間的に奪う。
人は虫ではない。
どうしてそんなことができるのか。
どういう判断基準でそれがなされうるのか。
他者存在をどう認識するとそういうことが「可能」になるのか。
その「判断」はどのような価値基準を基にして下されたのか。
そんなことは人間のできることではない。
自分以外の命を戦わずしていっぺんに数万人殺害する。
それを深く想えば、吐き気を催して「人間」でいられなくなる。
それはいつまでも永久に問われ続ける。
戦争に勝利することを目的に、一度期に多数の無辜の人を殺害しようとする。
全ての爆撃、ミサイル攻撃、そして地雷は、「戦争犯罪」である。
それは誰に当たるかわからないから。
無関係の市民の人の命をまとめて奪うことを厭わないという命令を下すということは、狂気的な最前線での偶発的暴行や虐殺よりもはるかに罪が重い。
それは自己の存在理由の「否定」である。
そもそもウクライナは、ドニエプル川西岸「キーウ」を中心とする、現在の西部地域から北方に広がる国家だった。
東部とクリミアは、長い間「ロシア」人が支配してきた。
クリミアは黒海から地中海大西洋に続く軍港である。
ロシアがこれを諦めることは到底あり得ない。
これは予めわかりきったことであった。
ゼレンスキーもわかっていなかったはずがない。
そしてウクライナ国民の命をそれに賭けた。
その結果は「これ」である。
もしも西側NATOが供与した武器がなければこの「混乱」はなかった。
「ロシア」にはそれが読めなかった。
「混乱状態」を想定しなかった。
これがこの惨害の顛末の原因だろう。
あたかも1812年のナポレオンのロシア遠征と同じようなことが起こったとも言える。
「コサック」ならぬ、最新対戦車・対ヘリコプターミサイルシステム。
ロシア軍は前進できない。
「停滞」せざるを得ない。
兵器機械を使って前進すれば、確実に「標的」にされる。
ゆえに、歩兵が生き残る。
歩兵はそもそもなんでこのようなことをしなければならないのかわからない人たちだから、怒り狂って狂気の最前線では醜い残虐行為を起こす。
そこにいよいよ「混乱」が生じる。
すると、結果的にどうもその「混乱」がその目的だったらしいことが浮かび上がってくる。
「混乱」を歓迎する、あるいは「企図」する人たちがいる。
「混乱」を目的にするとはどういうことか?
それは戦争を拡大することであり、そこに「経済」を投入することである。
「破壊」の後の莫大なる「復興資金」を投じることが「目的」になる。
軍事経済は、実は「消費」そのものであるから、「生産」が前提になる。
そこでは、「経済力」が戦争を決定する。
「エネルギー」は使わなければ「温存」できる。
逆に、使わせなければ金にはならない。
とどのつまり、「人命」よりも「利益」を優先させる。
「我々」が願うのは、それが意味があるかどうかしれないが、今回巧妙に「参加」しないことを選択した中共政府同様、長い目でみる米露の国力低下と西欧の疲弊なのかもしれない。
しかしここで、もし戦争で死んだ人が自分だったらとダイアローグすることは無意味ではない。
そこにこそ、「international」があると思う。
誰だって死ぬのは真っ平なのに、「経済」を優先させてそれを行う。
そこには、そうではない「歴史」の追求の可能性があったのではないのか。
プーチンもバイデンも「バカ」で、習近平は「ズルい」。ついでに隣国では「花火師」。
これを「幼稚」と嗤うのは傲慢なことであろうか。