垂れ流しを垂れ流すことについて | JOKER.松永暢史のブログ

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昔ある編集者に、「本を出している作家が、自分で無料の文章を垂れ流すのはナンセンスなことなのではないですか」と注意されたことがあるが、だとするとこのブログを続ける自分はいったい何をやっていることになるのかとか思ったりするけれど、外を降る雨の音に導かれてこれを書き始めている。

「ルアー」についての考察から、結局現代の「資本主義」とは、わかっていない人を対象にして、ありとあらゆる方法で何かに「引っ掛ける」ことがその活動の主目的になっているということが浮かび上がってくる。

余分な「消費」、余分な「料金」、余分な「ピンハネ」。

これは、多くの人が自己の「選択」に無自覚であることを前提にしている。

意識が強い者が「意識」が弱い者を動かす。

だからこそ儲かる。

必要以上の「利潤」が上がる。

よく考えてみれば昔から世の中はそうだったのかもしれない。

「労働」では、自分のその時間あたりの働きにしか代価を得られない。

そうではなくて、「労働」以上の代価を得るのが「ビジネス」である。

とどのつまり、複製可能な「製品」を作って流通させ、より多くの人にそれを買わせないと余分に儲からない。

「価値」は作られるのであり、それに先行してあったわけではない。

「価値判断」の前の「感覚」に訴える。

「ホルモン」を出させるようにする。

すると、想定以上の「大漁収穫」が得られる。

これは一本釣りの「ルアー」に喩えるというよりも、魚群探知ソナーと「網」を使った「漁業」に喩えるべきことかもしれない。

しかし、最新のマーケット戦略で当たれば、そんなことも可能である。

つまり、「価値」は新たなる「利潤」を生み出すために、ファッション的に作られるものなのである。

YouTubeの「成功者」は皆それではないのか。

自ら作った著名度と「ブランド」。

「システム」と「商品」。

現資本主義の究極目的は、上から下まで「保守」から「革新」まで、とどのつまり大衆に「ウケ」ること。

自分で自分の悦びを見出せない「大衆」を面白がらせること。

とどのつまり、余暇時間にすることを自分で思いつけない人のための「娯楽商品」を提供すること。

ついでに広告収入と、商品販売を結びつけること。

みんな同じ。

ここにおける彼らの判断する「サカナ」とは何であり、彼らはその実その「サカナ」に何を「提供」しようとしているのか。

でも、自分の多くの時間を使ってお金を得てそれでどうするのか?

そこに必要なのは、即座に自分のしたいことをするための時間であるはずだが、そのためには自分が本当にしたいことはなんなのかというダイアローグを捨象したままでいることはできない。

しかし、「情報」でアタマオカしくなった人たちにとって、自己にとって最善のことが何であるのかは、自己ダイアローグによるものではなく、単にそこに並べられた「情報」内のものの選択・クリックすることでしかない。

世間の人々の欲望を解析して、その求めるものを提供して利益を得る。

これは一応法的にはどこも悪くないことであるが、できたら早めに「卒業」したいことでもある。

そんなことはオモロうない。

そうではなくて自分の本当にしたいことを掴んで前に進むことの方が重要である。

良い食生活と、ストレスのない自然環境、おまけに焚き火の炎に象徴されるそこで得られる「エネルギー」。

元気の良いさまざまな友との交流。

これらは資本主義的な営為や価値観とは無関係のところに存在する。

つまり、資本主義的環境下における、それとは別の人間活動の「選択」がある。

本来必要がないものは必要ない。

必要がないものに金を取られるのは嫌だ。

山中の村に行けば、およそ60万もあれば1年暮らせてしまう。

滞在費・生活費は月5万円以下。

これは昔インドあたりに旅行に出るより安い感覚である。

必要なのは、他者とやっていける人間性とコミュニケーション力ということになるのか。

また「垂れ流し」を書いてしまったが、以上の考察からも、資本主義社会の出版社は当然売れる本を作ろうとする。

だから「作家」は売れそうな「内容」を提示することが必要になる。それにはここに書くような余計なことは言わないことになる。

それでも、「良いもの」を作ろうとする。

ゆえにこのブログの内容とは異なるものとなる。

なぜなら「読者」が異なるから。

そしてこれを書くのは、「Joker」であって「作家」ではない。