薪ストーブのある生活と子ども | JOKER.松永暢史のブログ

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その家は大きな池の「湖畔」にあった。

目の前の道路を挟んで、手前に東屋、そしてその先には湖と対岸の山の遠景、隣は梨園。

1階リビング中央窓寄り一段降りた壁際にしっかりとした薪ストーブ設備。

床と壁はコンクリートで、これは建設前からこのストーブの設置があらかじめ組み込まれていたことを示している。

外は雨で寒いが、耐熱ガラス越しに見ることができる炎はなんとも言えぬ落ち着きを与える。

頭上やや高いところに干してある洗濯物がいかにも早く乾きそうでつきづきしい。

室内には3人の子どもと母親。小学二年の長女、4歳の次女、そして2ヶ月の長男というか赤ちゃん。おまけに犬もいる。

家の主人は出張でいないと言う。

大変である。「少子化」どころの騒ぎでない。

でも、長女は心優しく妹の面倒を見、何かをとってくれと言う母親のお願いにも快く応じる心の余裕がある。次女は、ややアスペルガー気味で、自分からの主張はあるが人からの問いかけにはまず答えない。絶えず面白いものはないかと目を光らせているが、そうではないと絵や工作など何かの作業に集中している。彼女はもっと母親に甘えたいが、赤ちゃんがいるので仕方がないと認識できているようだ。やや首が座り始めた赤ちゃんは、お母さんの背中にいて、周囲を体感している。胴が長い犬は、ヨタヨタと部屋のあっちこっちを行き来し、床に寝そべって体を舐めたりしている。

自然である。薪ストーブのせいなのか、それともそれを選んだ人のためなのか。赤ちゃんがいるためか、皆、自分でできることは自分でやろうとし、退屈も自分で紛らわす習慣がつく。そして周期的にストーブのところへ来て火の様子を確かめる。

焚き火に子どもたちを連れて行くと活性化されてリセットされることは分かっているが、室内に薪ストーブがあって、しかもその炎が見える環境で毎日生活することとは、「何か」をそれをする人に与える。その「何か」がなんであるのか言葉に言い表せないが、人間的な何かであることは否めない。つくづく薪ストーブがある生活がしたいと感じる。

宅急便が来て、ご主人の友人から長男誕生祝いの大きな伊勢海老が届いた。