少子核家族化―世の家庭環境が大きく変わっているのに、いったい何のためなのか、既成のシステムに押し込めて子どもを教育しようとし続ける。結果、言うことを聞いて大人しくしない子どもを「LD」として特別支援学級などに入れて差別化する。不登校を選択する子もいる。
私は思う。子どもたちは新しい未来社会に「適応」しようとして、敢えて自ら「多様化」して生まれてきているのではないかと。ADHDや自閉症スペクトラム的要素を持った子どもが増えてくるとは、創性や着想や発明を多く求める世の中が来ると「予想」しているからではないのか。
IT技術最先端のリーダーたちは、「異人」が現れることを期待すると口にする。「異人」とは、これまでにないものを創造する能力を持った人たちのことである。
しかし、実際の学校教育の現場で続いていることは、その「異人」の元を断ち切ろう、あるいは芽を摘もうとすることであるように思われる。これは「矛盾」である。
社会の最先端で「異人」が求められているのに、学校教育ではその異人を邪魔者扱いする。あるいはその潜在的能力を伸張しようとする環境がない。逆に「異人」が出ないように抑制する。
では、「異人」ではない子どもたちはどうなってしまうのか。
面白いことを考えたりやってみたりする「異人」が排除されて、協調性を持ち大人しく言うことを聞く者たちだけで学習し、良い成績をもらい社会適応する方向性で育てられる。しかしそこで学習して身につけたことの多くは、将来機械にとって代わられてしまう可能性が高いものである。また、自ら面白いことを思いつく習慣がないから、情報と娯楽を求めることになる。ただし、芸術など創作的活動をする者は幸いであろう。
いかなることも、誰かが次に何をするとオモロいか思いついて提案しなければ始まらない。
今米国の大企業のトップや役員が芸術大学の大学院に通うことが流行っていると言う。
企業にとって最も重要なことは次の「商品」を考案することである。そして芸術とは、これまでに他の人が作ったことがない新しいものを創って見せることである。企業のトップが思いつくことを学ぼうとすると言うのであるから面白い。だったら最初から芸術的素養を持った者がCEOとかになれば良いことになる。
思いつく能力?そんなのふだんの学習に関係ない。学ぶとは真似ること、まねぶこと、前へ習え!―余計なことを考えずに言うことに従うこと。
気をつけ!右向け右!起立!礼!着席!
これは考えるなと習慣づける教育に他ならない。そんな習慣がついたら、何も思いつけなくなる。思いつこうとしようとしなくなる。
いったいいつの時代の教育なのだろうか?
オモロいことを思いつく能力は、友だちと夢中になって遊んでいる時に鍛えられることが多い。一人では思いつかないことを二人なら複数なら思いつける。また、一人でオモロいことを思いついても相手がいなければ現象しない。オモロいことは共有されて初めてオモロいものになる。もちろんその輪の中に特にオモロいことを思いつく者がいれば、さらにその能力も共有されることになる。
ただよく考えると、人は何かを思いつく瞬間に「利益」を考えてはいない。良いことを思いつくことは単純な人間的な喜びである。
全ての人が余暇時間に自分が何をするとオモロいか楽しいかを考えられるようにする。
そういうことを与える教育が求められている。