あらゆる「聖書」「経典」を読んでも、そこに「真実」は言語化されていない。
わからないのではない。伝えられないのである。
真理は「真理」としてあるものではなく、『真理』として言語化できない領域にある。
「リベラルアーツ」で、世界的な経典を縦横網羅的に読んでいくと、そこに「真理」が書かれていないことが分かる。
「禅問答」なんて「退廃」的なものである。
チャイニーズが勝手に始めて高まった「言語遊び」。
そもそもブッタがその質問者を打ったか。
その答えは明らかである。
民族伝統は異なるとも、それを打つか打たないかは「暴力」の問題である。
その心が善ければ、相手の背後にある事象を捨象して主観的に人を打つことは正しいのか。
そんなことは、ことを煮詰めれば究極あるはずがない。
つまり、目の前の人を打つと言う「主観的判断」はナンセンスだと言うことになる。
そこには目が覚めないものに対する「ジレンマ」みたいものの「暴発」がある。
静かに「真理」を体得するのが瞑想ブッダの教えだったのではないか。
ブッダは打たない。
それは、人はナチュラルに悟るものであるからだ。
ナチュラルに自己存在の有り様とするべきことを識る。
それは「他」に強制されない。
自然に目覚める。
では目の前の人の存在を盲目的に愛せば良いのか。
それは否定し難いことではあるが、必ずしもそうとは言い切れない。
「宗教」は何のためにあるのか?
「哲学」はなぜあるのか?
それは、人を、未来的により賢くするためである。
より賢くなる「ダイアローグ」の習慣を与えるためであるはずである。