「Joker」と言う題名の映画があることはチラと目にした記憶があるが、それを観たこともなければその内容も知らなかった。
Wikipediaによると、これは最後の方の場面のパフォーマンスの時に「Joker」と名乗る、貧困や突発的笑病などさまざまな困難を抱える主人公が、仕事上での憤懣から地下鉄での富裕層銃殺事件を引き金に、次々と殺人事件を犯していく過程を描いたもので、最後は発狂すると言うストーリーであるそうである。
チェコのミラン・クンデラの代表作に『冗談』と言うのがあるが、これは社会主義抑圧化の悲劇を喜劇としようとしたもので、悲劇ではあるが、一切を「冗談」と捉えてしまう喜劇でもあるとして、その苦味を昇華させようとするのか。クンデラの最も尊敬する作家はセルバンテスである。そしてその『ドン・キホーテ』は狂人の物語である。
経済的に、精神的にあまりに困窮すると、気が狂ってしまいたくなる人が出る。中には自死を選択する人もいる。
でもどうしてそうなってしまったのか?「社会」を信じて、自己決定を放棄し続けたからか。それともつまらないことがきっかけか。
親に依存できるならまだ良い。これは「フリーター」や「引きこもり」になる可能性もあるが。
そうではなくて自立しなければならない場合、生活費を自分で働いて稼ぐ必要がある。
しかし、何らかの普通以上の能力がなければ、最低賃金で働くしかない。
そしてそれはオモロうない単純作業であることが多い。
だが、多くの中退者あるいは学校教育についていけなくなった者たちはそうした仕事に就かざるを得ないことになる。
「学歴」などはその逆の象徴か。ともあれ何とか読み書きはできるのである。そうすればややマシな職に就くことができる。
しかし、そこには「幸運」な者と「不運」な者がいる。
子どもは親を選べない。そして親の育て方が子どもの将来を決定する最大要素である。
子どもは親が思ったようには育たない。でも基本的に与えた大切なことは将来必ず役に立つ。
子どもの時の生活環境。読み聞かせなど、後の学習や人間活動の大元となる国語力の整備を親がしてやれたであろうか。
パズル的試行錯誤遊びや暗算遊びを与えて数学で落ちこぼれないようにしたであろうか。
自然環境で充分に実際体験させたであろうか。
スポーツ・芸術といった自己表現の技術を身に付けさせたか。
テレビ、ゲームなどに長時間浸りすぎないように注意していたか。
ともあれ、本が読めて文が書けるようになっていれば、本人の如何ともし難い性質というのはあろうが、学習で挫折することは少ないはずである。
だがこうしたことを子どもの時に得られない不運な子どもたちがいる。
そうしていくつかの悪い要素が重なって、そこでさらに偶発的な事件に出遭った時、「悟り」とは真逆の「発狂」が起こりうることになる。目の前の社会が「敵」になってしまうのである。
複雑に積層する人間社会で起こっていることを因果論的に解明しようとしても無意味であるのは自明であるが、小田急線に続き、京王線での事件を思うと、つくづくそんなバカなことをせざるを得なくなった精神状態の若者の境遇を気の毒に思う。
命が保障されて行動の選択が自由であれば、それで文句なしに男は「OK」ということを知って欲しい。
アタマがオカシクなったら都会にいるな。若者不足の田舎に行け。家賃ほとんどタダで、生活費も月3万円でも済む生活ができる。しかも自然の景色よろしく毎日焚き火で、自由時間も多くて、すぐに楽器が上手くなってしまう人もいる。ということは音楽で自己表現。誰の迷惑にもならない。かえって喜ばれる。そうすれば「発狂」しないで済む。そして実際、今、コロナでなかなかままならないらしいが、そうした道を選ぶ若者が増えているという。
そうではなくとも「旅」に出ろ。「旅」に出ようとせよ。そしてそうするにはどうするのが良いのか考えよ。
真面目に「哲学」ばかりやっていればアタマがオカシクなるから、「文学」でふざける必要がある。
世の中旧くてオモロウないから、「芸術」で新しいことを創ってみようとする。
都会にいるから「自然」が不足する。
「ハロウイン」では不完全だ。電車の中で火をつけなければ「燃焼」しきれないらしい。
どこかバランスが悪い気がする。
でも、自己の社会内存在確認をする「祭り」がなければ仕方がないか。
「祭り」に必要なのが「神」であることを想うとき、この国では「神」が自然環境であったことに思い当たる。
若者よ「発狂」するな。その前に都会から逃げて自然に向かってくれ。そこには「神」もいる。
以上なんかね、どうも「冗談」で書きにくくなってしまっているのである。