我々は「学歴」に弱い。とにかく「学歴」が高いことを良いことだと捉える。
そして、そう思い込んでいることに自覚的でないことが多い。
それは我々の習慣的価値観に染み込んでいる。
しかし、その「学歴」で、その人間の存在価値を測ることはできない。
東大定員は約3000人、慶大が約6000人、早大が約9000人。
その他国立大学や私立「名門」といわれる大学の入学者数を足せば、その数ははかり知れない。
しかも毎年その卒業生が「生産」され続ける。
こんなにも多くの人が、入学試験に通った、あるいはその大学を卒業したと言うだけで、存在価値があると判断することはとても出来ない相談だろう。またこのことの背後には、努力で取ろうと思えば取れるものを取らなかったのであるから、そうでない者には価値がないと言う判断も生まれうる。
東大と慶大を全体集合として資料的に比較することはできる。しかし、それを元に、そこに在籍する部分集合である個人の学生の価値を判断することはできない。
そう言うことは日本人の好みなのかもしれないが、ナンセンスなことである。
学歴は多少参考になるとしても、その人間の存在価値は、それを通じて何をしてどのように生きて来たかと言うことによって判断されるはずである。小さな善行でも、それを守り続ければその価値は大きい。
では、世間に認められることに価値はあるか。
「名声」―この方が「学歴」より価値判断根拠になりやすいが、だからと言ってその人物に真に存在価値があるかどうかは後世が決めることで、生きている間はその人物が何らかの役に立つか、他者に良い影響を与えているかというようなことで存在価値が決定されている。またそれが、「努力」と言うよりも、むしろ「運」によってもたらされていることも多い。才能も「運」のうちである。世間に認められても、その評判だけで人物の本性が高いことを判断することはできない。
普通人々は、「学歴」を得るために勉強する。それを得ることを目的に塾や私立校に通う。中には初めから附属校を目指す人もいる。
しかし、それは間違っている。「学歴」を目指すのではなくて、自己の能力向上を目指していたら結果的に「学歴」の方でついて来てしまったと言うのが正しい。
また、大学でも、そうした人物を積極的にA・Oなどで採ろうとする時代になっている。
成績を上げることが目的ではなくて、自分の能力が伸びるように勉強する。そしてそれが習慣化されていく。
これは周囲大人の責任である。
子どもが自分から思いつくとは思われない。
もしそうなら、それは「運」か「才能」と呼ばれることになるはずである。
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