「資本主義的社会」でも「共産主義的社会」でも、「民主主義的社会」でも「全体主義的社会」でも、変わらないことがある。
それは、実は「大衆」は「上」のしようとしていることがわからないという「前提」である。
ゆえに、「政府」が最もするべきことは、大衆の「洗脳」ということになる。
ここに関わるのは「メディア」であるが、「メディア」は大衆受けすることによって成立している「世界」だから、その「領域」を逸脱することはない。その「幹部」には、「資本主義」というよりもこの流れから、「他」より上手いことを思いついてそれをいち早く「実行」し、そこに「利潤」を上げることの追求にその存続可能性が潜むと認識する者が多いはずであろう。
「左翼」という言葉が古めかしければ、それに対抗する「保守」という言葉はもっと旧めかしい。「守旧的」である
どの政治家も、未来社会の「想定」をもとに語りかけない。
全て政治家は、「教育」についておおよそ本格的に語ることがない。
「想定外」と言わざるを得ない「状況」になってしまうことになることに対して無自覚であるように見える。
このことは、彼らが非常に愚かか、かつまた想像以上に「狡猾」であることを示唆するのかもしれないが、これは「オカシ」なことではないのか。
「政治家」は、現状対処の自己責任を免がれることを「仕事」とし、未来のことを「想定」することを「捨象」する。
これでは、「官僚」と同じである。だが、これは政治家の世界では「バカ」を意味しまいか。
でも「政治家」は選挙に勝たなければならない。大衆に支持されなければならない。
「芸能人」と同じにならなければならない。
思いっきりわかりやすいことは口にするが、その実大切なことは伏せておくようにする。なぜかと言えば、「言ってもわからない」から。通じないから。
「バカ」や「イカれた」人間から、「大衆」に受ける人間を選ぶとどのようなことになってしまうか。
いやそれがわかっても最早致し方ない。
教育の淵源まさにここに存す。
「不登校」と「不投票」が「マトモ」であることになってしまう。
しかし、我々は「覚醒」しようとするべきである。
我々は、生命と、エネルギーと、信じられないほど長い人生時間を与えられた「存在」である。
誰でも何かをなそうとしてなすことができる可能性が高い「機会」を与えられている時代に生きている。
そのことは、単に生き延びることより、どのように生き延びるのかという「選択」があることを意味する。
そしてそれは、「好奇心」と「感受性」の認識に関わってくる。
いかなる政治体制下にあっても、個々の人間の追求するべきことは同じである。
我々はいったい、教育によって、どのように「洗脳」されてきて、どのように「洗脳」されようとしているのか。
無自覚であるのは「危険」である。
しかし、「政治」はそれを前提にして行われるのである。