もしもある人が、自分は自分の人生における自分のやりたいことがやれていると思うことができれば、その人はいかなる政治体制下に関わらず幸福なことを意味される。
実はこれからの社会で個々の人が考えるべきことは「全体の幸福」などではない。それは、「上から」に期待するナンカの誤りである。全体主義社会においても同じ。国家体制などはどうでも良い。個人個人が勝手に自分から幸福になっていくことを増やすことがそれらを超えた新しい社会観の目的である。そしてその観点が次の政体を作る、と思いたいが、そんなことはない。まだ当分、「差別」による「搾取」は続く。だから「武装」も必要である。
多くの人は「そこ」にある「幸福」に気がつけない。「主体的」になれない。ただ自分の本当にやりたいことを自覚的に実践する人たちが部分的に現れるだけ。
「幸福」―それは、自分は本当にやりたいことをして生きていると思えればそれで良いだけ。
裕福であることも貧乏であることも関係がない。
「労働」に拘束される以外の時間に何を行なっているかということ。
でも、多くの人は、改めて自分の本当にやりたいことは何かとダイアローグしても答えが返らないのかもしれない。
自分のやりたいことを見つける前に、「これいかがですか〜?」という情報が押し寄せてきてしまい、ついそれを選ぶことで自分の本当にやりたいことを忘却することを繰り返す。
「ルアー」に引っ掛かり続ける。
しかし、これから人生時間は、より長く与えられることになる。
だからこそ、あらためて人は問わなければならない。
―本来一回こっきりそれも偶然にこの世に生を受けた自分の本当にやりたいこととは何か?
そして、この問いに答えられない者は、永遠に同一周回線上を巡回し続ける「宿命」にある。
「境涯」における「光景」を見失う。
それは問い詰めていくと「抽象的」なものになってしまうのかもしれない。
しかし敢えて人は問うべきである。
生きているのはただ生きるため?
それとも自分のやりたいことをするため?
自分のやりたいことができるのはなぜ?
それは自分のやりたいことを自分で見つけられるから。
自分のやりたいことを忘れないから。
学校で行われているのは、自分のやりたいことを見つけさせない教育。そんなこと関係なしに、できるだけ考えずに全体に従わせる教育。能力を開放しないようにする教育。不要な命令と反復訓練を受け入れさせる教育。
これは上の考察観点からすると「最悪」である。「オンライン利用」でも、実際はワーク利用過重学習。つまり「残業の練習」。これしか思いつけない。
これにマジで付き合うと、やがて自分のやりたいことを思いつけない「不幸」な人間になりがちであることは「哲学」的に明らか?
それどころか、自分が何を主体的に判断しているのかさえわからなくなる状況に至ってしまう。
つまり、「幸福の素」を失うこと。
自分のやりたいことを見つける力は、幸福の元である。
―自分の本当にやりたいこととは何なのか?
それを問わずに済む人たちを、「我々」はどういった「立場」の人と「冗談」で了解すべきなのか。
そこにあるのは、どこまでも、
「好奇心と追体験」、「感受と心情表現」
と言った行動・体験における自覚認識の欠如ということになるまいか。
どうやら「教育」は、そのことへの「無自覚」により、感性までも麻痺させていることに自覚的ではないようだ。
このブログは、自覚的に、「冗談」で書かれている。
なんちゃって。