やはり奥多摩に行くと調子が良いのか。
以下また予め何を書くかを考えずに自動筆記を試みる。
「体験」が全てを決定する。
そしてその「体験」は人によって異なる。
だから「運」だという人もいる。
しかし、自らの純粋な好奇心に基づいて、それを追体験しようとする主体的な行為による体験結果は、そこに前段階としてのおおよその「予想」乃至は「思い込み」があるからこそ、その「結果」に正しく反応することを可能にする。その時それは判断力と直結する真の「体験」となる。その人の「人生」を決定する「体験」になる。もちろんその前提に、目覚めていること、もしくは「目覚め」に近い状態という「準備」が必要であろうが。
もちろん、あたかも必然であるが如く、予期しない「偶然」が起こることもある。
体験するためには、活動しなければならない。
活動しなければ何も起こらない。
活動しながら「認識」を高める以外に何もない。
そして、その「認識」を的確に支えるのが「言語」である。
その言語能力は、明らかに後天的なもの=体験的なものであることを忘れてはならない。
自らの用いる言語水準に疑義を発し、あたかも新たなる楽器を習得するように、その言語水準を高めることに意識的になろうとする。
それは全ての人に実践可能なことだ。
体験の認識と、それに伴う判断と言語認識の高揚。
外界からの刺激である好奇心を、感性の働きによって受け止め、そこから生じた行動と追体験を、主として言語により抽象・認識・表現しようとするときに起こる「認識」―その「体験認識」はこれを意識的に実践認識しようとする人にしか現れない。
その「認識」は言語とは別次元のものなのかもしれない。だが、そこには絶えず言語による記憶と伝達可能性がある。
イメージは描かなければ伝えられない。言語は発せられることなしには伝わらない。
伝わらなければ「記憶」として残らない。
つまり、「体験」があたかも雲が蒸発するように無意味化する。
言語は常に我々とともにある。
我々は常に言語を用いる動物である。
これはどんな時代になっても変わらない。
親がしゃべるから子がしゃべる。
だから、やはり、何よりも言語に優れるようになろうとする方向性が正着なのだ。
これは生まれ持った「才能」と、聴覚能力以外に関係ない。
言語は後天的なものである。
「機会」と「意識」の働きなのである。
これを忘れてはならない。