体験と言語について | JOKER.松永暢史のブログ

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やはり奥多摩に行くと調子が良いのか。

以下また予め何を書くかを考えずに自動筆記を試みる。

 

「体験」が全てを決定する。

そしてその「体験」は人によって異なる。

だから「運」だという人もいる。

しかし、自らの純粋な好奇心に基づいて、それを追体験しようとする主体的な行為による体験結果は、そこに前段階としてのおおよその「予想」乃至は「思い込み」があるからこそ、その「結果」に正しく反応することを可能にする。その時それは判断力と直結する真の「体験」となる。その人の「人生」を決定する「体験」になる。もちろんその前提に、目覚めていること、もしくは「目覚め」に近い状態という「準備」が必要であろうが。

もちろん、あたかも必然であるが如く、予期しない「偶然」が起こることもある。

体験するためには、活動しなければならない。

活動しなければ何も起こらない。

活動しながら「認識」を高める以外に何もない。

そして、その「認識」を的確に支えるのが「言語」である。

その言語能力は、明らかに後天的なもの=体験的なものであることを忘れてはならない。

自らの用いる言語水準に疑義を発し、あたかも新たなる楽器を習得するように、その言語水準を高めることに意識的になろうとする。

それは全ての人に実践可能なことだ。

体験の認識と、それに伴う判断と言語認識の高揚。

外界からの刺激である好奇心を、感性の働きによって受け止め、そこから生じた行動と追体験を、主として言語により抽象・認識・表現しようとするときに起こる「認識」―その「体験認識」はこれを意識的に実践認識しようとする人にしか現れない。

その「認識」は言語とは別次元のものなのかもしれない。だが、そこには絶えず言語による記憶と伝達可能性がある。

イメージは描かなければ伝えられない。言語は発せられることなしには伝わらない。

伝わらなければ「記憶」として残らない。

つまり、「体験」があたかも雲が蒸発するように無意味化する。

言語は常に我々とともにある。

我々は常に言語を用いる動物である。

これはどんな時代になっても変わらない。

親がしゃべるから子がしゃべる。

だから、やはり、何よりも言語に優れるようになろうとする方向性が正着なのだ。

これは生まれ持った「才能」と、聴覚能力以外に関係ない。

言語は後天的なものである。

「機会」と「意識」の働きなのである。

これを忘れてはならない。