限界集落とは、例えば山の中で農林業等の先細りにより、少子過疎化して戸数少なく老人だけの集落になっているような居住地域を意味する。
しかし、こうしたところでも必ず車道がついており車で行けるようになっている。これは極端に言えば、救急車が来られるようにするためであり、これは憲法第25条の
―すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
― 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と言う「生存権」の保障によるものだそうである。
さて、憲法第14条には、
―すべての国民が法の下に平等に取り扱われ、人種・信条・性別・社会的身分などによって差別されない権利。
とあり、さらにその第26条には、
―すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
とあるから、どのような場所にも学校があり、教科書が配布されていなければならないことになり、なおかつ、いかなる地域で育成されようと、その文科省の検定した教科書の深い理解があれば東大法学部でも合格できるようになっていなければならないことになる。ちなみにもし限界的集落に子どもがいれば、その子どもはバスなどを使って町の学校に通うことになる。それには道路とバスが必要であるが。
小学校に教科書が読めるようになって入学する者は稀であろうから、多くの子どもは最初の段階で、教科書に書いてあることを読み取るのではなくて、その内容をテーマに先生が解説する授業を受けることが学習になる。
その後も教科書は、同一学年の生徒が自分で読んで理解するのはやや面倒なものになっているので、生徒たちは教科書を読むことよりも、授業とワークの宿題の学習形態に導かれることになる。こうして教科書を読むことを重視せず、学年が上がった結果、教科書を読んで理解することができない子どもが多数になる。
教科書が読めない者が大学へ行ってもしょうがないし、自分で教科書が読めて理解できるのであれば、大学は喜んでその生徒を迎え入れるはずである。
つまり、授業を理解する能力よりも、教科書内容を読んで理解する能力の方が有効で大切である。そして学校では教科書が読めるようにする教育は行われない。
各学年の教科書をきちんと自分で読み進める習慣のついた者は、徐々に理解が難しくなる高校教科書も読み進めることができるようになるはずである。そうすれば塾も学校も予備校もいらない。極端に言えば、オンライン学習も必要ない。必要なのは教科書を読んで理解する日本語能力だけと言うことになる。
では、その教科書を読むには、他の書物を読むのと比較してどのような心がけが必要であろうか。